F1・絵画・競走馬ほか「鶴巻智徳」が夢に賭けた1200億円

F1・絵画・競走馬ほか「鶴巻智徳」が夢に賭けた1200億円(1)

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〔サーキットの開場パーティを祝った元首相〕

世界でも有名な画家が描いた絵画を日本人が買い漁るという、かつてない出来事が起きたバブル景気の時代。それは、今から約30年も前のことだったが、東京全日空ホテルとパリの会場を衛星通信でつないでオークションに参加し、ピカソが描いた「ピエレットの婚礼」を5160万ドル(約75億円)で競り落とし、一躍世界に名を馳せた男がいた。鶴巻智徳という。

(写真:ピカソ「ピエレットの婚礼」)

そしてもうひとつ、日本にF1レースを誘致するという夢を叶えるかのような場面を世間に見せたのが鶴巻だった。大分県日田市(当時は上津江村)の広大な土地に作った全長4.674㎞のサーキットは、当初からF1開催を目指して建設された。それ故、サーキットが完成した直後の平成2年11月30日、鶴巻は日本オートポリスの社長として絵画オークションに参加した時と同じ東京全日空ホテルの宴会場を借り、さらには来賓客に竹下登元首相を招くなど華々しいオープニングパーティーを開催したのだった。

大分県でも交通網が整備されていなかった日田のサーキット場を世間に知らしめるために、鶴巻はF1レースで3度のドライバーズチャンピオンとなったネルソン・ピケがドライブするベネトンチームのスポンサーを平成2年から平成3年にかけて務める中で、サーキットのオープニングイベントには、ベネトンのビジネスパートナーとしてコマーシャル・ディレクターだったフラビオ・ブリアトーレと同チームスタッフ、そしてドライバーのピケを招くなどして、積極的にF1の誘致活動を行った。

(写真:鶴巻智徳)

鶴巻にとって、F1レースの誘致はバブル景気を背景にした“成り上がり紳士”の単なる見栄ではなく、F1レースという興業をビジネス化させようとする大きな賭けだったに違いない。F1の運営全体にまで影響を与える力を有していたバーニー・エクレストンに対してもF1レースを誘致するために様々なロビー活動や交渉を行っていたからで、これが実って平成5年にはF1第3戦を「アジアGP」として初開催   するまでに漕ぎつけたからである。

しかし、鶴巻の夢はそこであっけなく頓挫してしまった。東京全日空ホテルで華々しいオープニングパーティを開いてからわずか2年後の平成4年、日本オートポリスは倒産し、同社の親会社である日本トライトラストは総額1200億円の負債を抱えて倒産した。その結果、翌年に初の開催を予定していたF1はキャンセルとなってしまった。倒産時の負債を一人鶴巻個人が背負えるものでは無かったことは明白だったが、一部には「ピエレットの婚礼」の落札金額75億円は鶴巻の自己調達では賄えず、ノンバンク「アイチ」の森下安道が不足分を補ったという指摘もあるだけに、すでにサーキット(写真)の開場を派手に打ち上げた時点で鶴巻の計画は資金面で行き詰まっていたことが窺える。

(写真:サーキット全景)  鶴巻をF1誘致に駆り立てた背景には何があったのか。F1誘致というとてつもない挑戦は野望でしか無かったのではないか? と思われるのがごく普通の印象である。だが、鶴巻にはもう一つ、世間には絶対に晒してはならない一面があった。鶴巻が活躍できると踏んだ表舞台、F1の興業ビジネスは正にその一面からの脱却で、だからこそ巨額の投資に踏み出したのではないかと思えるのだ(以下次号)

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〔2年で潰えた実業家への転身〕
昭和61年1月のある日。東京銀座7丁目の一角に建つビルの一室に数人の男たちが集まり、その中に鶴巻の姿があった。
男たちが集まった目的、それは当時京都に本社を置く日本レースという名門企業を巡る仕手戦に係る問題処理だった。強力な資金力を背景にした仕手筋の乗っ取りをも視野に置いた攻撃に、同社が取った対策として、その後、戦後最大の経済事件とも言われたイトマン事件の中核に位置することになった許永中を京都支配人に迎えた。そして、許永中が放った奇手が同社の売り上げに匹敵する約60億円の手形を乱発したことだった。事実上、経営危機に陥るような手形の乱発で、仕手筋の攻撃は中断したが、思わぬ余波が起きた。乱発された手形とほぼ同額の偽造手形が市中に出回ったのである。鶴巻は額面総額7000万円の偽造手形を掴まされ、その解決を直接許永中にさせようとした。

事情を知る関係者によると、協議の場に迎えられた許永中に鶴巻は「取引がらみで損失を出すわけにはいかない。この金はオヤジの金だから」と詰め寄り、何としてでも偽造手形で出すかもしれない損失を許永中の責任で回収しなければ収まりがつかないと要請したという。鶴巻が口にした「オヤジ」とは、当時は構成員数千人を維持していた広域指定暴力団のトップのことだった。もちろん、鶴巻と血がつながっていたわけではない。鶴巻はトップの“私設秘書”あるいは“金庫番”とも呼ばれていた模様で、その立場を許永中に突き付けたことで許永中も譲歩し株価吊り上げの提案をしたのだと関係者は言う。鶴巻のもう一つの顔、それは反社会的勢力の中に身を置く企業舎弟の顔だった。

(写真:アンリマチス「Femme Couchee dans un Interieur」)

「許永中は『日本レースの株価を最高で400円にまで吊り上げていくから、それで利益を出し損失を埋めて欲しい』と提案した」という。その時点で100円台を上下していた株価を2倍以上に吊り上げるという、大がかりな仕手戦に許永中は自信を持っていたようで、その後、同社の株価は一時的に300円近くまで上昇したから、鶴巻は損失を回収したと思われるが、その後の経過は分かっていない。

日本オートポリスの倒産によって、実業家への夢が潰えた鶴巻が個人的に負った負債がどれほどだったのかは判明していないが、オートポリス(サーキットに併設するホテル、美術館等を含む)の開発費だけでも約600億円とされた中でゼネコンのハザマ(現安藤・間)はオートポリスの競売を申し立てたものの落札者が現れず、債権回収名目でサーキットを引き取り、日本オートポリスは東京地裁で破産宣告(負債約900億円)を受けるに至った。(その後、2005年に川崎重工が買収し、2輪のロードレースイベントが開催され活気を取り戻した。

(写真:クロードモネ「Pres de Vetheul」)

アメリカの競馬界で連勝を重ねたエーピーインディ(エーピーはオートポリス=AutoPolisの頭文字)を筆頭に有していた約60頭の競走馬、日田のサーキットに併設しようとした美術館に収納する予定にあったピカソを始めシャガールやモネなど高名な画家たちが描いた絵画の作品群、東京・目黒平町の土地を始めとする不動産などが多くの債権者によって回収の対象となったのは当然の成り行きだった。そしてその、鶴巻に対する債権債務の処理を巡っては前述のようにいくつもの隠れた攻防やドラマがあった。(以下次号)

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〔自己破産をした後に資産を密かに売却〕

日本オートポリスの倒産から2年後の平成6年7月、鶴巻はある債権者から5億5000万円の融資を受けた。1年後の平成7年7月31日を返済期限とした公正証書が翌月の8月末に作成されたのだが、鶴巻は融資を受けるに当たって「東京目黒平町の自宅土地を担保にします」と言って権利書ほか一式を持参したが、債権者は「住居を担保に入れたとなれば、金融機関に対して信用を失くすことが目に見えているので、担保に取るのは控えます」と温情を示したので、鶴巻は感動して何度も債権者に礼を述べたという。ただし、鶴巻への貸付金が債権者の自己資金であったならばともかく、実際には債権者が知人より借り受けたものだったというから、なおさら債権者の厚意が鶴巻には身に滲みたに違いない。しかし、鶴巻は期限が来ても返済する目処が立たないまま金利の支払いさえ遅れる一方だったという。

(写真:債務弁済契約公正証書(5.5億円))

鶴巻が保有していた絵画は、先にも触れたように金融機関の担保に入っていたが、平成9年頃に鶴巻は絵画のリストを債権者に提示して「担保を解除してもらい、これを返済原資に充てる」という申し出をした。しかしそれも実際に実行の可能性が出てきたのは平成14年頃のことで、その間に鶴巻が債権者に返済したのは平成11年に3000万円、平成12年に1億4000万円の合計1億7000万円だった。

鶴巻が率いた会社群の中で日本オートポリスは巨額の負債を抱えて破産に追い込まれたが、デルマークラブ(競走馬関係)、リンド産業(シイタケ栽培)などは表向きには倒産を免れ、中核の日本トライトラストもまた倒産はしたが、債務処理ほかの残務整理を名目に業務を継続した。そして、それぞれの会社が保有する資産、例えばデルマークラブはエーピーインディの種付権(1億円超)のほかに目黒平町に土地を保有しており、またリンド産業は福島県内に1万坪を超える土地を所有(借地分を含む)していた。鶴巻も個人的に絵画(美術工芸品)を保有していたが、前述の通り金融機関の担保に入っていた関係から、金融機関がクリスティーズを始めとするオークション会社に販売を委ねるなどしたものの、実際には販売価格が折り合わずにいた。こうした保有資産は総額で約10億円から11億円と見込まれたが、一方で総額1000億円近い負債を抱えて破産宣告を受けた日本オートポリスの後始末をしつつも、10億円前後の資産がギリギリで差し押さえられなかった背景には、やはり鶴巻の“裏の顔”に遠慮する金融機関やゼネコンなどの配慮があったのかも知れない。そうした中で、債権者が鶴巻の自宅土地をあえて担保に取らなかったという厚意を、鶴巻自身が裏切るような事実がその後相次いで発覚していった。

(写真下:債務返済を約束する「念書」)

第一には、絵画を返済原資に充てると申し出た平成9年から翌10年にかけて、鶴巻が東京地裁に自己破産を申し立て、それが受理されて免責を受けたにも拘らず、債権者には事前に相談も無かったばかりか、債権者の下に破産宣告の通知が届かないような工作をしたことであった。しかも、自己破産申立の手続きを受任した松本憲男弁護士が鶴巻から「当初は1億5000万円の債務であったが、これを返済できなかったため、5億5000万円の債務を承認した公正証書を作成せざるを得なかった」と聞いていたとして、免責債務申立では債権者に対する債務を1億5000万円としたのだった。これは、債権者にとっては寝耳に水だった。関係者によると「松本弁護士は鶴巻が振り出した手形をジャンプする際にも『私が責任を持ってやらせる』と言うほどだったから、仮に鶴巻の言う話が本当であるかどうかを調査するのは顧問弁護士として当然の職務だったはずだ」という。しかし、その形跡は無かった。鶴巻及びその側近として昭和43年以来鶴巻に仕えてきた岡田瑞穂、さらには鶴巻の親族らが債権者に働いた裏切り行為を次号より明らかにする。

ちなみに、債権者に鶴巻を紹介したのは東京中野で事実上ノミ行為や闇金融業を営んでいる森重毅という人物だったが、この人物は相当な曲者であるようで、債権者に鶴巻を紹介したときに“紹介料”を要求したり、鶴巻への投資案件と称してそれぞれ1億5000万円ずつを出しあうという提案を債権者にしながら、実際には債権者だけに出資させた(鶴巻への債権を回収しようとした疑いが持たれる)など、ずる賢さは図抜けているようだ。この森重毅についても別稿で取り上げる。(以下次号)

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〔鶴巻の死亡を隠し通した遺族〕
鶴巻が返済原資にすると債権者に約束した絵画(モネの「松林」)の売却、そして目黒平町の土地売却による債務処理は思わぬ展開を見せた。
何よりも取り上げなければいけないことは、平成14年以降体調を崩し入退院を繰り返していた鶴巻が平成19年8月5日に病死した事実が遺族たちの意思でずっと隠し通されてしまったことである。鶴巻の側近として倒産後も鶴巻の下に残っていた岡田瑞穂によると、鶴巻が亡くなった直後、病院に集まっていた家族で相談したところ、「葬儀となったら、これはえらい騒ぎになるのと、鶴巻夫人も非常に傷心状態にあったため内々で過ごそう」ということになり、鶴巻の死は誰にも知らせなかったという。債権者が岡田に何回も「鶴巻の見舞いに行きたい」と言って都合を尋ねても、岡田はその度に「本人の体調がすぐれず、医者も面会は控えるように言っています」などと言い訳して、会わそうとはしなかったという。

(写真:クロードモネ「松林」)

 

しかし、岡田の言い訳が通らなくなる日が訪れた。債権者が鶴巻の死を知ったのは、鶴巻の死亡から約2年後のことで、たまたま鶴巻の顧問弁護士をしていた松本憲男弁護士に債権者の会社の部長が電話をした際に、会話の途中で松本弁護士から知らされたという。松本弁護士は債権者が鶴巻の死を知らなかったことに驚いていたようだが、部長から報告を受けた債権者が改めて電話をすると、松本弁護士はくどいくらいに「自分から聞いたとは言わないで下さい」と伝えてきたという。その日は岡田が債権者の会社を訪ねて主治医の面会の諾否を伝えることになっていた。それ故、岡田が来社した時に、債権者が「もう鶴巻さんとは会えないんじゃないの?」と揶揄した言葉を発すると、岡田はうろたえ、顔が蒼褪めたという。鶴巻の遺族は鶴巻の死を外部に知られぬよう厳しい緘口令を敷いていたのだろう。その理由は恐らく一つしか考えられず、それは、鶴巻が日本オートポリスの破産後も個人、法人で残してきた資産の処理以外にはなかった。そして、その一つが絵画の作品群で、クロード・モネの「松林」もその中にあった。

鶴巻が所有していた絵画は、その大半が金融機関等で処分されたが、モネの「松林」は他の絵画群から切り離される格好で、鶴巻の裁量に任された模様だ。絵画の作品群はヤマトロジスティクス東京美術品公募展センターと大星ビル管理の日比谷トランクルームの2か所に預けられていたが、すでに触れたように、鶴巻は平成9年頃から金融機関に担保の解除交渉を始め、平成14年頃にはようやく解除の目処がつき、鶴巻は債権者にその旨を提示していたのである。
その後の具体的な経過は不明だが、鶴巻が体調不良を理由に債権者の所へ岡田が定期的に出向くことになり債務承認書(念書)を書き換える中で、債権者は絵画、特にモネの「松林」を処分して返済原資に充てる話をその度に聞き、また処分が遅れている話を岡田から聞くばかりだった。ところが、平成19年4月12日、実はモネの「松林」は密かに銀座のギャラリー早川に売却されてしまい、売却価格の3億1000万円はその日のうちに日本トライトラストの口座に振り込まれたのだった。売却の指示は病床にあった鶴巻自身がしたというが、しかし、その事実は債権者には知らされないままで、岡田の債権者への対応はまさに裏切りだった。さらに岡田による言い訳だけの裏切りの日々が数年続いたが、まさに詐欺の常習犯と言える。

とはいっても債権者はただ手を拱いていたわけではなく、岡田を介して何度も鶴巻の妻道子との面談を要請していたが、道子は体調がすぐれないとか、他に用事が出来たといった理由で日延べするだけでなく、面談の約束が出来ても当日になると突然にキャンセルするということが3年以上にわたって50回以上も繰り返された。
債権者と道子の間に入った格好の岡田は、面談がキャンセルになった理由を道子のせいにしていたが、岡田が本当に道子に面談の必要性を説いて説得していたのかどうか、債権者には少なからずの疑念があった(後日、道子と岡田が2人で計画してやってきたことと思わざるを得ない事実が相次いで判明した)。
そうした中で、デルマークラブが所有していた目黒平町の土地に対しては平成9年から競売の申立が何度か起きていたが、その度に中断していたものの、平成20年6月にメディアトェエンティワンが申し立てた差押えが認められたことから、債権者も放置できずに何としてでも道子との面談を実現させるため、態度を曖昧にしていた岡田に強く要請した結果、ようやく平成23年11月1日、目黒の都ホテル(現シェラトン都ホテル東京)での面談が実現した。

道子は待ち合わせのホテルに単独ではなく、長男の智昭と次女の晴美、そして鶴巻の会社の社員だった田中泰樹を同行したが、予定の時刻に15分以上も遅れたことに詫びるでもなく、また、鶴巻が死亡してから3年間、債権者が何十回も面談を要請しながら当日になると断ってきたことへの謝罪もしないまま債権者が待つ席に長男と一緒に座った。そうした態度に債権者は先ず不快感を抱いた。
そして債権者が貸付金と、その返済にかかる絵画について話を切り出すと、「ご存知のように私は鶴巻とは別居していましたから、社長からの借入金とか、絵画のこととか言われても何も分からない」と言う道子の返答がさらに債権者を不快にさせた。謝意のかけらも感じさせない上から目線のような口ぶりだったからだった。
そのため、債権者が岡田に「絵画はどうなっている? あるんだろうな?」と多少は強い口調で2度、3度と質すと、岡田が「はい、あります」と答えたのだが、すると今度は、同席していた長男の智昭が立ち上がり「おい、いい加減にしろ!!」と岡田に向かって怒鳴りつけたため、岡田も向きになって「表に出ろ」と言い返したことから、あわや取っ組み合いになりかけた。そのため、これ以上は面談を続けられる状況に無く、お開きとなってしまい、道子はどうしても岡田を自宅に連れて帰ると言って、気が進まない岡田に対して「来なさい」と強引な態度を取った。

債権者にとってはただ不快でしかなかった道子との面談は、結局何の成果もなく終わったが、それから1ヵ月半ほどした平成23年12月下旬、岡田が債権者に一通の書面を持参した。その書面は「確約書」と題したもので、債務の返済に関わる絵画(モネの「松林」)の処理、競売の申立が成された目黒平町の土地に係る処理等が具体的に書かれ道子の署名まであったが、その後、この確約書の約束が履行されなかったために、岡田が翌平成24年1月20日付けで前の確約書とほぼ同じ内容の「確約書」を今度は手書きのまま原本を債権者に持参したのだが、これは岡田の創作に基づいた債務返済計画である上に書名も偽造したと主張する道子側と真っ向から対立したのである。(以下次号)

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〔モネの「松林」は売却されていた〕
平成25年に債権者は2通の「確約書」を有力な証拠として、日本トライトラストと道子に対し、貸金返還を前提とした絵画引渡等請求の訴訟を起こした。仮に確約書の作成が岡田の債権者への説明通りではないとしても、少なくとも岡田が確約書を作成するに当たって道子の指示や同意があったのは間違いないとして踏み切った訴訟だった(岡田の話にはうそが多かったので、弁護士から2回も確認を求められたが、岡田は間違いないと答えた)。しかし、前号で触れたように2通の「確約書」を作成したとする道子が真っ向から否定し、信憑性が問われることになった。

 

(写真:確約書 岡田が鶴巻道子の署名を偽造したとして、書面の有効性が問われた)

しかも鶴巻の死亡直前にギャラリー早川へ売却した事実を岡田自身が承知していながら、債権者には全く逆の話をして騙し続け、債権者を信用させるために渡してきた書面すら岡田による偽造ではないかという道子側の主張が裁判官の心証を占めるようになった。何よりも訴訟が提起された直後に岡田自身が道子側の弁護士と面談し、2通の確約書の偽造を認めるかのような自白をしたり、あるいは道子が岡田の自宅を訪ねて確約書の作成経緯を岡田と語り合う内容を録取した音源が証拠として提出されるなどしたために、岡田がモネの「松林」が売却された事実を知らなかったと強弁しても、全く信用されなくなってしまったのである。
その結果、平成26年12月、裁判官は日本トライトラストに対しては、債権者に対して負っている債務が合計で約8億6400万円あることを認め、その支払と一部2億8000万円については平成12年4月28日から支払い済みまで年30%の金員を支払えと判決したが、道子に対しては全面的に請求が退けられてしまった。全て岡田の嘘が招いたことだが、道子が外された影響は大きかった。

債権者は、判決に基づいて債権回収の強制執行を申し立て、実際にもそれが認められたので実行したが、1回目の執行では約23万円、2回目の執行では約5500万円で1億円にははるかに満たなかった。その結果、債権者は改めて連帯保証をしていたデルマークラブと道子に対して損害賠償請求訴訟を起こしたが、デルマークラブについては時効が成立、また道子については前述と同じ理由で退けられ、全面棄却となった。岡田は「全て道子との打ち合わせの上でのことと述べていた

また確約書に記された目黒平町の土地に対しても、岡田は抵当権を設定していたメディア21という会社に対して設定を取り下げさせ、さらにメディア21から債権譲渡を受けた金山澄雄に対しても競売申立を取り下げさせると約束し、確約書でもそれを謳いながら一切実行できず、約束が偽りであったことが裏付けられてしまった。

岡田瑞穂は、鶴巻が鉄工所を経営していた昭和43年から鶴巻に仕えてきた男で、鶴巻が死亡した後も日本トライトラストの取締役として会社に残った。通例でいえば、日本オートポリスの破産宣告で鶴巻の率いた会社グループは、その巨額の負債により事実上瓦解していたわけだが、前述したとおり残された資産があったために日本トライトラストを中心に継続され、鶴巻の死後も残務処理を名目に岡田が居残る余地が残ったことになる。何より会社や鶴巻個人の債務処理については、岡田以外に事情を心得ている社員が一人もおらず、鶴巻が病床に伏せて以降はなおさら、一人岡田が対応していたのが実態だったようである。
道子は法廷に提出した陳述書の中で鶴巻が「岡田に会社をめちゃめちゃにされた。あいつとは二度と会いたくない」と語っていたと述べているが、それは、これまでに触れた2通の「確約書」の作成が一方で債権者の意思に沿った内容としており、また証拠としても提出されたが、今度は道子や道子の代理人に対して自ら偽造したことを白状する書面の作成に協力するような態度を岡田が取ったことから、裁判官には全く心証が悪くなってしまった。岡田が鶴巻の元で債権者に関わりながら、どれほど債権者に損害を与え、混乱させてきたかについては別稿で触れる。(以下次号)

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〔不可解すぎる岡田の嘘のつき方〕

岡田瑞穂には得体の知れないところがあって、岡田本人にとっての利害に関係なく嘘をつき書類を偽造する。鶴巻が平成19年8月に死亡した直後、岡田は債権者との折衝を従来どおりに続けていたが、債権者には鶴巻の死を一切告げなかった。債権者が「お見舞いがてら鶴巻さんと話がしたいので、アポイントを取って欲しい」と頼むことが何度もあったが、岡田は「主治医に頼んでアポを取って貰いましたが、今ちょっと具合が悪いみたいなのでもう少し待ってやってください」と言って嘘を突き通した。前述したように、鶴巻の妻(道子)とのアポイントも同様であったから、債権者は岡田の対応が長年仕えてきた鶴巻と鶴巻の親族を護るために発したことかとも考えたこともあったようだ。しかし、債務返済に係る2通の「確約書」は道子が確認して署名したという前提で債権者に説明されたが、岡田の自作であることが発覚し、岡田は債権者からも道子からも決定的に信用を失くした。そうであれば、岡田の嘘や書類の偽造は岡田個人の事情によるものでしかないことになる。例えば、鶴巻や親族の目の届かないところで横領や着服行為が未遂、既遂であったのではないかという疑念が生まれるのだ。もっとも岡田は鶴巻の意向を伝えなくなった後は道子と話をして、道子の指示に従っているという報告をしていた。道子はすでに逝去したが、責任は大きい。

(写真:念書 日本トライトラスト、デルマークラブの債務返済計画を書面にしたが、岡田の話はでたらめだった)

平成6年8月、債権者が鶴巻に初めて融資を実行してしばらく後だったが、鶴巻が債務の一部の返済に充てるとして、熊本県内に所有していた土地(債権者に一旦は名義変更していた)を自治体に売却し、その売却金を債権者に支払うという約束であったが、岡田は売却金約8500万円を債権者には「4500万円で売れた」と偽って残る4000万円を着服した。これは後日発覚したが、それでも岡田は「天地神明に誓って着服などしていません」とシラを切り通した。

また、債権者が提起した訴訟の審理の場で、道子の代理人弁護士が絵画(クロード・モネ作「松林」)の売却の事実関係を質した際に、岡田に対して売却の実行に関わりながら売却先の画廊からキックバックを受け取ったのではないか、と疑問を投げたが、このときも岡田は「売却には関わっていない」と強く否定した。代理人弁護士による追及はそこで終わったが、岡田は嘘に嘘を重ねた上に矛盾を突かれ、あるいは調べれば事実がすぐにも判明することでも自分が吐いた嘘をトコトン認めなかった。

債権者が鶴巻に対する債権回収の場で、岡田が持ち込んできた競走馬の売却や種付け権の売却、道子が所有していると言っていた株式の売却、さらには福島県会津に所有していた土地の売却等による売却金等での債務返済計画について、それらのいずれも、すでに売却済みであったり売却交渉すらなかったことが判明しても、その場の言い訳を繰り返すだけだった。岡田は返済計画が現に進行していることを裏付けるかのような書類、伝票類を偽造することも平然とやってのけたのである。債権者が岡田の嘘を強く疑い、あるいは書類や伝票類への疑念を岡田に直接質しても、岡田は決して認めなかった。書類や伝票類の偽造は、岡田が嘘を認めずシラを切り通すための単なる時間稼ぎや引き延ばしでしかなかった、としか思われない。鶴巻智徳については、ここでひとまず終えることにして、債権者に鶴巻を紹介した森重毅について触れることにする。(以下次号)

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〔森重毅が嘯く「財産は現金100億円」〕

鶴巻智徳のシリーズ(3)で触れたように、債権者に鶴巻を紹介したのが森重毅だったが、この男は自分の債権が焦げ付きそうになると、新たな債権者に「万一返金がないときには責任を持つので」と声をかけ、債務者に貸付をさせた上で森の回収に充てさせるという極めてずる賢く卑劣なやり方を得意とする男である。しかも、森本人の貸金の金利は最低でも月1割取っていたが、新しい債権者は最初から月3%以下の金利を設定し、その後は銀行金利に近かった。しかし森は「競馬では1レースが約2分30秒で結果が出て、売り上げの25%がJRAの利益になる。それを考えると、月に1割は安いもんだ」と比較にもならない理屈を口にしていた。

森重毅は過去10年以上無免許で車を乗り回してきた男で、よく警察の検問や職務質問に引っかからずにきたものだと呆れ返る。恐らくは免許の再発行が適わないような事情があったに違いない。警察と言えば、森は永らく競馬や競輪、さらには野球賭博の「ノミ屋」(勧誘を行った時点で、各々の法律違反になるのみならず、詐欺罪又は賭博罪に問われる)を密かに、しかも多くの大口の客を抱えて行ってきた。過去には警察が取り締まりの対象として場外の投票券売り場にたむろして客を勧誘するノミ屋を摘発していたが、電話を使って客との連絡を密に取っていた胴元に行き着くことは少なかった。そして、インターネットが普及している今は状況が明らかに変わっているという。しかし、10年以上も無免許運転を繰り返し、ノミ行為とウラ金融を業としてやっていれば、いずれは綻びが出るのは間違いない。「森は過去に監禁されたことが2回あって、その度に10億円を支払って開放された。警察には届けることができない裏の事情もあった模様で、詐欺の常習者だし、ノミ行為で荒稼ぎをしていた上に八百長を行っていた」と関係者は言う。

ある関係者によると「森も他の例に漏れず反社会的勢力に関わる人間が背後に控えている。一部にはその人間からさえも年間で10億円に近い利益を吸い上げていると身近の関係者に吹聴しつつ誘い込んで、自分の思い通りにさせようと計画していたと思われる。それだけに森はノミ屋といっても相当にあくどいやり方をしているという噂になっていた」という。

鶴巻に5億5000万円を貸し付けた債権者に対しても、そもそも「二人でそれぞれ1億5000万円を投資しないか」と提案して、債権者と鶴巻が面識を持つ最初のきっかけを作ったのが森であったという。この時、森は鶴巻の会社が1200億円の負債を抱えて破産宣告を受けた事実を債権者には隠していた。森は、恐らくは自己の回収が目的だったに違いない。そして、いざ債権者が資金を鶴巻に渡したとき、森が資金を用意していない事実が判明した。すると、森は「岡田(鶴巻のNo.2)を知人に紹介したら『あいつの話は信用できない』と言われたので投資は止めた」と債権者に言った。債権者は「そうであれば、ちゃんと説明するべきではないか」と質したが、森は言い訳すらできなかったという。その後、債権者にしてみると、なかなか鶴巻から回収できない状況にあったところに、森が債権者に対して「何か忘れていないか?」と尋ねてきたことがあり、債権者が「何ですか?」と聞くと、「(鶴巻への投資の)手数料をもらっていない」と言うが、投資がうまく行けば謝礼もするが、投資話そのものが森による作り話であったとすると、森という人間は詐欺まがいのことを常時やっていたことになる。ちなみに森は債権者に鶴巻智徳の他にも菅沢利治、丹羽志郎など複数の人間を紹介していたが、いずれも債権者から借り入れ(菅沢利治は2億円以上、丹羽志郎は9000万円以上で、他にも井山某等複数いた)をしていながら返済が滞ったままになっており、森は自分の債権を回収するために嘘の話をして彼らを債権者に紹介した責任は取るべきだ。鶴巻の会社が破産していることを知りながら債権者に紹介した森の責任も大きかった。

(写真:森重毅が紹介した菅沢利治の借用証書)

鶴巻への融資で債権者に重い負担を強いておきながら、「鶴巻を紹介した紹介料を貰っていない」と要求した森に対し、さすがに債権者も怒りを覚え、「森さん、あなた、何を言っているんだ。鶴巻に貸しつけてから、10年以上の間で回収できたのはほんの一部でしかない。それをあなたは分かっているのか。鶴巻に対する債権については、最初の数ヶ月は3%で、その後は銀行金利に近かったが、金利を含めて60億円前後に膨らんでいる。あなたはその責任をどう取る積りなんだ」とたしなめると、森は「いや、そんな積りじゃなかった」と言った後に続けて「金があったら、払いたいが……」と言ったが、実は森はノミ行為の電話番の男には「俺は100億の男と言われている。巷で言う100億円を持っているという人間は、大抵が不動産とか有価証券等の全てを合算しているが、ワシは現金で100億円以上を持っている」という話を何回も豪語していた。

また、森は債権者の人となりについて「社長は、今は金を持っているかもしれないが、いつも人に金を払わせず気前が良いので、いつか貧乏になる。そこへ行くと、俺は現金で100億円はあるからなぁ。土地や高額商品じゃないぞ、現金だからな。俺は社長のようにはならんよ」と周囲に嘯いたという。

数年ほど前に森が債権者を訪ねて来て、「鶴巻さんの件は私にも責任があって何とかしたいが、金が無くて……」とぼやき気味に話を切り出した。そこで、債権者は「森さん、あなたは現金で100億円を持っているそうじゃないか。金がないというのはどういうことか」と質すと、森は口ごもって返事もできなかったという。鶴巻の実情を知っていながら、債権者に鶴巻への投資話を持ちこみ、さらに多額の貸付を発生させた責任を森は債権者の前では何度も認めてきたが、未だ責任を果たす気配すらないという。森は妻を病気で無くし娘が一人いるというが、以前より愛人との間に息子がいる。しかし、前にも触れた通り、ノミ行為の胴元を続けてきた森はいつ警察に摘発されるとも知れず、また、それが現実化した時にどのような事態が待ち受けているか、実感を持っているのだろうか。森は既に高齢で、今後、表には出ないように娘(M)と息子への相続が起きるだろうが、それが上手く隠せるはずはなく、債権者たちが黙過することはないから身辺整理はしておいた方が良いのではないか。第一、税務当局だって見逃すはずはないのだ。鶴巻が死亡してから、すでに10年以上が経つ中で、債権者はようやく森に真摯な対応を迫ることになった。(以下次号)

F1・絵画・競走馬ほか「鶴巻智徳」が夢に賭けた1200億円(8)

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〔言動はほぼ全て嘘にまみれ実印も偽造〕

岡田瑞穂は鶴巻が死亡した後も債務処理を主とした残務整理を続けていたが、債務の連帯保証をしていたこともあって、債権者自身の仕事に協力をすることで少しでも役に立てれば、ということであったが、そこでも岡田特有の嘘が頻繁に起きた。

(写真:岡田瑞穂)

例えば債権者が所有していたビルのテナント付けという業務である。岡田は平成19年から同22年頃にかけて娯楽施設、医療施設、専門学校等のテナントとの交渉が進み契約締結まで至ったと言って書類を用意したが、これらの施設との交渉は早い段階で終了していたから契約に至ることはないということが分かっていたにもかかわらず、岡田はその事実を隠して嘘を言い続けたために、他に貸すこともできず賃料収入等でさらに大きな損失を被った。

特に棚娯楽施設がビルの1階から3階(1、2階の一部と3階の全部)を借り受ける契約については、既存のテナントに退去して貰うための交渉から違約金の発生など多くの手続を伴うことになったが、岡田が「実際は最初からの作り話で、条件をどんどん煮詰めていると嘘の報告を繰り返していた」(本人の証言)ために、遂には既存テナントが退去する合意を結ぶところまで行き着いてしまった。しかし、その時点でも岡田は知らぬ振りを決め込み、出店する会社と正式に契約を締結するに際して、弁護士が作成した「契約書」に岡田は出店会社の社印と代表社印を偽造して押捺してやり過ごしてしまった。そして、既存テナントから出店会社への引渡しの段になって、岡田は出店が嘘であることをようやく認めたのだった。当然、債権者は既存テナントから入るはずだった家賃収入や将来的な賃料も見込めなくなる損害を被り、さらに日常の資金調達予定にも大きな狂いが生じたという。
岡田は新たなテナントを確保するまでの賃料に相当する金額(月額約150万円)と既存テナントの立ち退きにかかる費用(182万円)を補償する責任を負った。不可解なのは、娯楽施設との架空契約で岡田にはデメリットしかないのに、何故、相手会社の社印と代表社印を偽造して契約書に押捺するまで嘘を突き通したのか、ということだった。少なくとも、既存テナントとの退去交渉の時点で真っ当に話をしていれば、リスクは最小限で食い止められていた。そして、その後の医療施設、専門学校等とのテナント交渉でも岡田は同様のことを繰り返して多くの書類を偽造した。

(写真:債務承認書 岡田と妻が債務承認書に署名)

岡田が何を目的に関連書類を偽造してまで嘘をつき続けるのか、債権者にも不可解でならず、債務返済で誠実な対応を見せかけようとしたと考えてもデメリットの方が大きく、嘘をつき続ける理由が全く分からなかった。

ある時、債権者が「私に何か言いたいことがあるのか?」と尋ねても、岡田は「全く何もありません」と答えるのみだったという。岡田の虚言癖が留まるところを知らないために、100歳にもなる実母は永らく勘当を解かず、未だに岡田を許していないという。家族からも見放されている状態にあるのが実情だ。ちなみに岡田の妻も、岡田の虚言癖がこれほどとは思っていなかったようで、ほんの一部の事実を知らされただけでも、その驚きようは尋常ではなかった。

(写真:鶴巻の債務を承認する「念書」 )

岡田が債権者に持ち込んできた競走馬60頭の売却や種付け権約1億円の売却、道子が所有していると言っていた株式の売却、さらには東京目黒や軽井沢、福島県会津に所有していた土地の売却等による資金調達で債務を返済するという計画について、それらのいずれもがすでに売却済みであったり交渉すらなかったことが後に判明するのだが、岡田は返済計画が現に進行していることを裏付けるかのような書類、伝票類を偽造することも平然とやってのけていたのである。その金額はトータルすると100億円にも達する。これらは、岡田と森、鶴巻の家族による責任分担に関わるが、岡田は個人で借り入れた分も25年以上返済していない。

ちなみに、鶴巻の代理人を務めていた松本憲男弁護士は、鶴巻が振り出した手形について「全責任を持つ」と3回以上も言って依頼返却をさせながら、いざ、鶴巻が自己破産を申し立てると、債権者には通知すらしなかった。さらに申立では債権者の鶴巻に対する貸付金5億5000万円を「鶴巻からは1億5000万円と聞いていた」と偽るなど、こうした行為は弁護士としての資格を剥奪されるほど重大な過失であり、懲戒の対象となる。

鶴巻の妻道子が訴訟審理の場に提出した陳述書の中で「鶴巻が『岡田に会社をめちゃめちゃにされた。あいつとは二度と会いたくない』と語っていた」と述べていたが、債権者はそれとは比べ物にならないくらいの大きな被害を受けた(債権者の子息の留学に岡田が便宜を図ると言いながら3、4年を無駄にさせた、という例もある)。岡田が負った責任はすでに物心両面で少なからず親族にまで及んでいるという深刻な事実を決して忘れてはならない。すでに鶴巻の債務だけでなく、岡田自身の負債についても「子供たち(長女藤井由紀子、長男岡田寿彦。次女庄内由美子)を保証人にする」という書面を岡田の妻も同意の上で作成しているという。岡田が実行した悪事は十数件に上るが、今後、それらの一つ一つを具体的に取り上げていく予定である。(以下次号)

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