悪のレジェンド「種子田益夫」に新たな訴訟(1)

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〔7億円何とかなりませんか〕
これから触れる内容は、何年もかけて数多くの関係者から聞き取りを続け、それらの情報を精査したものである。

種子田益夫。今でこそ一般にはその名が知られていないかも知れないが、昭和から平成の時代にかけて、武蔵野信用金庫、国民銀行、そして東京商銀信用組合などの金融機関から不正に融資を受けて、そのいずれでも特別背任等の容疑で逮捕起訴され有罪判決を受けた名うての事件師だ。国民銀行の事件では、演歌歌手の大御所、石川さゆりの“パトロン”としてマスコミでも取り上げられ一躍有名になったが、その種子田が今年の7月に貸金5億円の返還を求められる訴訟を東京地裁に起こされていたことが、このほど分かった。

訴訟を起こした債権者(原告)の関係者によると、「この5億円は貸金のほんの一部に過ぎず、種子田氏への最初の融資が発生した平成6年以降、貸金が返済されたのは2回程度、それも債権者に信用を植え付けることを目的としたもので、その後の融資では元金はおろか金利の支払もされずに累積していった結果として、債権の総額が平成15年5月15日の時点で368億円に達していた」と言うから、想像を絶するような金額である。それ故、関係者も「今年(令和元年)現在で債権総額の全額を請求することは可能だが、元金の一部のみを請求することにした」という。種子田を巡る事件もまた詐欺同然の手口が満ちている。

種子田益夫という人物の経歴を見ると、これまでに種子田が行ってきた事業は多種多様で、出身地の宮崎県では21歳の時に丸益商事を起こして金融業を始めたが、わずか2、3年で経営が破たん。その後、兵庫県や愛知県、岐阜県周辺で10数年を過ごした後に丸益産業を興して宮崎県に戻り養豚業を開始するが、これも3か月ほどで経営に失敗し丸益産業も手形不渡りを出し、会社としての機能が完全に失われた。その後、種子田は宮崎を離れたが、昭和50年頃に再び宮崎に戻り金融ブローカーやドライブインを経営するうちにキャバレーやサウナ、パチンコ店等を経営するようになった。しかし、2年後の昭和52年頃に地元の金融機関に貸しを作って、いつでも融資を引き出せることを目的に不良債権を肩代わりしたことが原因で丸益観光グループ各社は軒並み倒産した。ちなみに種子田はいつの頃からか山口組のフロント(企業舎弟)という裏の顔を持つようになり、地元の宮崎県出身の国会議員との関係を深めていた模様だ。
こうした経歴を見れば分かるように、種子田は事業意欲は旺盛でも経営手腕には大きな疑問があった。

(写真下:債務承認書)

 

訴訟を起こした前述債権者が種子田に初めて会ったのは平成6年頃のことで、種子田が負っていた債務の一部約1億5000万円の弁済のための資金を貸し付けたのが始まりだったという。当時、種子田は「愛和グループ」を率いて複数のゴルフ場ほか多種多様な事業経営を手掛ける“実業家”として振る舞っていたが、実際に利益を出している事業はほとんどなく、経営は事実上“火の車”状態だったことが後日判明した。債権者はそうした種子田の実像を知らないまま、紹介者から「月に1割以上の高利に苦しんでいる」という話を聞かされて協力することにしたという。

この債務約1億5000万円(月3%の金利)について種子田は約束の3か月という期限内に完済させたために債権者は信用した模様だ。

種子田の債権者への弁済をした翌日から、種子田による債権者への猛烈なアプローチが始まった。
「種子田から債権者の会社に電話がかかり、『ぜひ、お食事をご一緒したい』と、東京・赤坂の『口悦』という料亭に招かれた。債権者は別の債権者との調整をしたことに種子田が感謝して食事に招かれたと思い、誘いを受けたが、その夜は種子田氏から特段の話も無かったため、『すっかりご馳走になりました』と御礼を言って種子田氏と別れたそうだ。
ところが翌日から、種子田氏が連日電話を架けてきて、その度に『口悦』で食事を伴にすることが4日も続いた。そうなると、さすがに種子田氏には何か思惑があるのではないかと債権者は考えたが、種子田氏からは一向に具体的な話も無かったため債権者も敢えて聞かなかった」(関係者)

しかし、その翌日もまた種子田から電話が入り、債権者は「口悦」に出向いたが、連日の誘いを理由も無く受けるわけにはいかず、「何か私にお話したいことがあるのではないか?」と尋ねることになった。すると、種子田がようやく「7億円、何とかなりませんか?」と本音を切り出したのだ。
債権者が詳しい話を聞くと、種子田には別に強硬な債権者がいて、その調整で協力をお願いしたい、と胸の内を語った。そして「月に1割の金利は問題ないが、食事のたびに2000万円を持参するのが重荷だった。暴力団とは、これを機に縁を切りたい」とも言った。債権者が「これで全て解決できるか?」と尋ねると、種子田は「はい、これで解決します」と答えた。
種子田は、返済は10カ月後になるが、その間の金利はまとめて天引きして欲しいとも言った。また金利は月に5分と種子田は提案したが、それでは金利が高過ぎて返済に窮することを心配した債権者は考え、「もっと安くても良いので、月3分でも十分ですよ」と言うと、種子田は「では4分でお願いします」と言う。債権者が計算すると、貸付金の額面が12億円ならば、月4分の金利を差し引いても手取りで7億円余りが可能になったと種子田に言ったが、種子田は「これで是非お願いします」と頼んだ。

前出の関係者によると、債権者は種子田とのやり取りから「これですべてが解決するなら」と考えて種子田の要望を承諾したが、これが後から考えれば大きな間違いだった。先にも触れた通り、種子田は実業家を装っていただけだったからである。
種子田から食事に誘われた中で、種子田は「宮崎で車のミュージアムをやりたい」と言い出したが、種子田が10台以上の車を東京都内の環八通り沿いと愛知県一宮市のインターオートに預けていたことを債権者は承知していたので、この話だけは本当だろうと思った。その時、債権者が世界に5台しかない車を所有していることを知っていたようで、「(それらの車を)ミュージアムの目玉にしたい」という話を口にしたので、購入した当時の定価は3億5000万円(現在の価値は10億円以上)だったが、3億円で売ることにも同意したという(ただし、車の引渡しは債権債務の処理終了後とした)。しかし、その後の種子田の対応を考えると、こうした話を種子田が口にしたのも債権者への懐柔策の一環だったのではなかったか。(以下次号)

2019.11.16
     

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