悪のレジェンド「種子田益夫」に新たな訴訟(7)

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〔段ボール箱10数箱が運ばれて〕
種子田が病院を担保にすると言って融資を引き出したにもかかわらず、いざとなると、公共性を盾に担保設定を拒んだり、息子が理事長であって種子田自身は関与していないという主張は、果たして罷り通るものなのだろうか。
関係者によると、「債権者は以前、腓骨神経麻痺症の症状が出て、種子田氏に請われるまま牛久愛和総合病院に1か月以上入院したことがあった。その時の経験から言えば、『オーナー室』という表札のかかった特別室のような広さと設備を整えた部屋があったが一度も使用された様子が無く、また院長以下全職員が種子田益夫氏をオーナーと呼び、種子田氏の客として債権者を最上級でもてなした、ということだった。
種子田氏が病院経営に乗り出してから、債権者から借りた金でいくつもの病院を買収し、力のある医師会や国会議員に頼んで施設の拡充を図り、医師の資格もない息子の理事長就任を図ってきた事実は病院関係者の誰もが知っていて証言している」

種子田が逮捕された平成13年から同14年にかけて、他の暴力団関係の債権者がゴルフ場や種子田の東京と宮崎にある自宅を売却したり競売にかける事態が起きた。そのうち宮崎市内の和風邸宅の競売(平成14年1月)では、種子田のダミーと見られる「汗牛社」が平成15年8月に一旦は自己競落した後の平成17年3月に息子(吉郎)が個人名義により売買で取得し、さらに同年12月に医療法人晴緑会(高知総合リハビリテーション病院と宮崎医療センター病院を経営)に転売したという事実は、まさに病院グループのトップたる息子が種子田の支配下にあることを明確に示しているのではないか。なお、汗牛社が種子田のダミー会社であることは、東京商銀信用組合が事件直後に当該土地に競売の申立をし、種子田(汗牛社)が慌てて資金を調達して自己競落した事実からも明確だった。そのようにみると、種子田が主張して止まない「病院に関与していない」という言葉は絵空事に過ぎず、「病院」という財産を密かに親族名義で蓄え、債権者が手を出せないような構図を構築してきたことに他ならない。そして、法律を悪用して財産を隠匿し、原告関係の多くの債権者を泣かせ続けている行為を決して許容してはならない。私的財産の“本丸”である病院を息子(吉郎)が任せられているのであれば、息子は当然実父益夫の負の部分も引き継がなければ不当と言わざるを得ない。

「種子田の側近だった田中(延和)や梶岡が辞めるときに、債権者に挨拶に来たが、種子田には本当に悪すぎてついていけない、債権者の前でも何度も涙を流して借金を懇願していたが、それも全てジェスチャーで帰りはいつも『してやったり』のにが笑いであったと言っていた」
田中も梶岡も種子田の借金の返済で債権者たちに言い訳ばかりを言わされていたが、側近ですら庇う気にもなれないほど種子田は悪すぎるという。種子田は灰皿や食器一つを割っても「これは、全部、自分のものだ」と言って怒鳴りつけたが、500億円以上の債務を負っていながら責任を果たさず、息子(吉郎)の支配下に置くようなやり方は決して許されることではなかった。まるで人を騙すことが生き甲斐になっているのではないかと思われるほど、種子田は牛久愛和総合病院をエサにして債権者たちを騙し、病院という事実上の私的な蓄財を息子(吉郎)に託してきた。田中は種子田益夫からもらった高級時計を息子(吉郎)が理事長についた後に返したという。また、どれだけ貢献したか分からないほど頑張った田中への退職金は、たったの100万円だったという。

息子(吉郎)が中核となる牛久愛和総合病院の理事長に就いたのは日本大学(芸術学部)を卒業して間もなくのことで、もちろん当時は医師の資格が無ければおいそれと理事長には就任できなかったし、またその後、父益夫が全国7施設の病院を買収していくたびに息子(吉郎)が理事長に就いていったが、息子(吉郎)に病院を相次いで買収する財源があった訳でもなかった。そのような父益夫の“ダミー”に過ぎない息子(吉郎)が理事長としての社会的責任をどこまで自覚して果たしてきたのかは大きな疑問である。

息子(吉郎)にとって最大の疑惑は前述したとおり、昭和50年代後半から同60年代初めにかけて医師の資格が無ければ理事長には就任できなかった課題をどうやってクリアーできたのか、という点である。つまり息子(吉郎)が理事長に就いたのは“ウラ口”であり、そのウラ口は多分に違法性の高い特殊なものだったということになる。

種子田の側近だった田中延和が「(吉郎)が大学を卒業したのを機に一ヶ月間アメリカの医療状況を見るためにツアーに参加した」と記しているように、それが息子(吉郎)にとっては病院経営の始まりだった。医師の資格はないから、当然知識や情報も積み上がらず、経験とノウハウも無いまま「大阪、高知、九州、牛久の4ヶ所の病院をコントロールすべく東京本部を創り」、田中が専務、吉郎が常務に就いて、全て種子田益夫の指示に基づいて具体的な方針を実行し運営に当たっていたという。種子田が全国の病院を買収し、グループを形成していく中で東京本部は次第に拡充していくが、吉郎はそこにアグラをかいていたに過ぎず、全ては父益夫の指示によって側近の田中が吉郎のためにお膳立てをしたのが実態だった。そして、種子田が刑事事件で有罪となり刑務所に服役すると、これも種子田の指示に基づいて病院グループは積極的に種子田のアイワグループとは一線を画していったという。

しかし、病院の買収や施設の拡充が種子田の巨額債務によって進められ、今日を迎えていることは明白だから、その事実を無視して病院の経営だけを切り離した状況を維持しようとすること自体に問題がある。なお、田中は一歩も二歩も下がったような口ぶりで語っているが、実際には田中がいなければ、アイワグループも病院も現在の形にはならなかった。(以下次号)

2019.11.16
     

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