株取引の利益総額470億円を生み出した手口(4)

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[新株売却を違法に仕掛ける]

次に「ヒラボウ」(現OAKキャピタル 東証2部上場)である。「時期は2001年(平成14年)、発行価格は15億円(90円/1600万株)になる」と西は明かした上で鈴木が80%、西田グループが20%を引き受けた。そして、鈴木が得た利益は約20億円であったという。

「この件の担当責任者は、元山一證券スイス駐在所長の茂庭氏でした。私が当時経営していた、日本橋ノモスビル5F内にある投資会社、ファーイーストアセットマネージメントと同フロアに、ユーロベンチャーキャピタルを設立し、ファーイースト社の一室にて茂庭氏が運営代行を行っていた」

山一證券は1997年(平成9年)に自主廃業に追い込まれたが、その原因となったのが1988年9月6日に社長に就任した行平次雄が、バブル崩壊後の株価暴落によって発生した含み損を適切に処理せず、先送りを繰り返した結果、簿外損失が2000億円を超える額にまで膨らんだことにあった。損失を隠すための“飛ばし”の現場が実はヨーロッパ各国にあり、茂庭も簿外損失を隠す中心的な役割を果たしてきた経緯があったことから、そのノウハウは鈴木にとっては、まさに利益隠匿で大いに役立ったに違いない。

「このユーロ債に関しては、ファーイースト社別室にて、茂庭氏立会いの下、鈴木氏の親交ある金融ブローカーや、来社したヒラボウ内部の人物に対し株券の受け渡しを実行しました。鈴木氏は、これらの金融ブローカー会社を3~5社使用し、ヒラボウの新株売却を担当させていた。目的は、自分の名前を出さないことと、本来日本ではすぐに売却できないユーロ債で発行した新株を少しでも早く売却させるためでもあった」

「一方では、西田グループに対し、割当価格の1~2割増しの金額で安く譲渡し、株価上昇に対する協力をさせ、自分が多大な譲渡益を得る工作もしていた」と言い、こうした工作により、鈴木は大量の新株を捌くことに成功したという。ちなみに、金融ブローカーの中で中心的だったのが「吉川某」という元反社会勢力の人間で、宝林株に始まる初期の株取引で吉川も大きな利益を手にしつつSECの目を逃れるようにフランスへ“逃亡”し、以降、同国内に住まっていたという。また、事務所の事務員を愛人として囲い、同じくパリに居住させていたともいう。鈴木は年に7、8回はフランスに出かけていたそうだが、その目的は、もちろん香港経由で海外に流出させた利益をスイスのプライベートバンクに集約させ隠匿する手続をすることにあったろう。

ただし、その後の吉川の消息については知る者が無く、それを鈴木に尋ねた者がいたが、鈴木はあっさりと「あいつは死んだよ」と答えたという。「ある時期から鈴木と吉川の関係がこじれたようで、鈴木が吉川を詰るような口ぶりに変わっていたが、まさか鈴木から『あいつは死んだよ』なんていう話を聞くとは思わなかった」という。最後は「住倉工業」だが、西によると「2002年(平成14年)、割当金額が10億円として鈴木氏と西田グループが合同で引き受けたユーロ債だった」というが、全株式を売却する前に住倉工業が倒産してしまったために、最終的な利益は約3億円に留まったという。 (以下次号)

2019.11.26
     

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