F1・絵画・競走馬ほか「鶴巻智徳」が夢に賭けた1200億円(2)

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

〔2年で潰えた実業家への転身〕
昭和61年1月のある日。東京銀座7丁目の一角に建つビルの一室に数人の男たちが集まり、その中に鶴巻の姿があった。
男たちが集まった目的、それは当時京都に本社を置く日本レースという名門企業を巡る仕手戦に係る問題処理だった。強力な資金力を背景にした仕手筋の乗っ取りをも視野に置いた攻撃に、同社が取った対策として、その後、戦後最大の経済事件とも言われたイトマン事件の中核に位置することになった許永中を京都支配人に迎えた。そして、許永中が放った奇手が同社の売り上げに匹敵する約60億円の手形を乱発したことだった。事実上、経営危機に陥るような手形の乱発で、仕手筋の攻撃は中断したが、思わぬ余波が起きた。乱発された手形とほぼ同額の偽造手形が市中に出回ったのである。鶴巻は額面総額7000万円の偽造手形を掴まされ、その解決を直接許永中にさせようとした。

事情を知る関係者によると、協議の場に迎えられた許永中に鶴巻は「取引がらみで損失を出すわけにはいかない。この金はオヤジの金だから」と詰め寄り、何としてでも偽造手形で出すかもしれない損失を許永中の責任で回収しなければ収まりがつかないと要請したという。鶴巻が口にした「オヤジ」とは、当時は構成員数千人を維持していた広域指定暴力団のトップのことだった。もちろん、鶴巻と血がつながっていたわけではない。鶴巻はトップの“私設秘書”あるいは“金庫番”とも呼ばれていた模様で、その立場を許永中に突き付けたことで許永中も譲歩し株価吊り上げの提案をしたのだと関係者は言う。鶴巻のもう一つの顔、それは反社会的勢力の中に身を置く企業舎弟の顔だった。

(写真:アンリマチス「Femme Couchee dans un Interieur」)

「許永中は『日本レースの株価を最高で400円にまで吊り上げていくから、それで利益を出し損失を埋めて欲しい』と提案した」という。その時点で100円台を上下していた株価を2倍以上に吊り上げるという、大がかりな仕手戦に許永中は自信を持っていたようで、その後、同社の株価は一時的に300円近くまで上昇したから、鶴巻は損失を回収したと思われるが、その後の経過は分かっていない。

日本オートポリスの倒産によって、実業家への夢が潰えた鶴巻が個人的に負った負債がどれほどだったのかは判明していないが、オートポリス(サーキットに併設するホテル、美術館等を含む)の開発費だけでも約600億円とされた中でゼネコンのハザマ(現安藤・間)はオートポリスの競売を申し立てたものの落札者が現れず、債権回収名目でサーキットを引き取り、日本オートポリスは東京地裁で破産宣告(負債約900億円)を受けるに至った。(その後、2005年に川崎重工が買収し、2輪のロードレースイベントが開催され活気を取り戻した。

(写真:クロードモネ「Pres de Vetheul」)

アメリカの競馬界で連勝を重ねたエーピーインディ(エーピーはオートポリス=AutoPolisの頭文字)を筆頭に有していた約60頭の競走馬、日田のサーキットに併設しようとした美術館に収納する予定にあったピカソを始めシャガールやモネなど高名な画家たちが描いた絵画の作品群、東京・目黒平町の土地を始めとする不動産などが多くの債権者によって回収の対象となったのは当然の成り行きだった。そしてその、鶴巻に対する債権債務の処理を巡っては前述のようにいくつもの隠れた攻防やドラマがあった。(以下次号)

2019.12.11
     

SNSでもご購読できます。

    お問い合わせ