F1・絵画・競走馬ほか「鶴巻智徳」が夢に賭けた1200億円(4)

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〔鶴巻の死亡を隠し通した遺族〕
鶴巻が返済原資にすると債権者に約束した絵画(モネの「松林」)の売却、そして目黒平町の土地売却による債務処理は思わぬ展開を見せた。
何よりも取り上げなければいけないことは、平成14年以降体調を崩し入退院を繰り返していた鶴巻が平成19年8月5日に病死した事実が遺族たちの意思でずっと隠し通されてしまったことである。鶴巻の側近として倒産後も鶴巻の下に残っていた岡田瑞穂によると、鶴巻が亡くなった直後、病院に集まっていた家族で相談したところ、「葬儀となったら、これはえらい騒ぎになるのと、鶴巻夫人も非常に傷心状態にあったため内々で過ごそう」ということになり、鶴巻の死は誰にも知らせなかったという。債権者が岡田に何回も「鶴巻の見舞いに行きたい」と言って都合を尋ねても、岡田はその度に「本人の体調がすぐれず、医者も面会は控えるように言っています」などと言い訳して、会わそうとはしなかったという。

(写真下:クロードモネ「松林」)

しかし、岡田の言い訳が通らなくなる日が訪れた。債権者が鶴巻の死を知ったのは、鶴巻の死亡から約2年後のことで、たまたま鶴巻の顧問弁護士をしていた松本憲男弁護士に債権者の会社の部長が電話をした際に、会話の途中で松本弁護士から知らされたという。松本弁護士は債権者が鶴巻の死を知らなかったことに驚いていたようだが、部長から報告を受けた債権者が改めて電話をすると、松本弁護士はくどいくらいに「自分から聞いたとは言わないで下さい」と伝えてきたという。その日は岡田が債権者の会社を訪ねて主治医の面会の諾否を伝えることになっていた。それ故、岡田が来社した時に、債権者が「もう鶴巻さんとは会えないんじゃないの?」と揶揄した言葉を発すると、岡田はうろたえ、顔が蒼褪めたという。鶴巻の遺族は鶴巻の死を外部に知られぬよう厳しい緘口令を敷いていたのだろう。その理由は恐らく一つしか考えられず、それは、鶴巻が日本オートポリスの破産後も個人、法人で残してきた資産の処理以外にはなかった。そして、その一つが絵画の作品群で、クロード・モネの「松林」もその中にあった。

鶴巻が所有していた絵画は、その大半が金融機関等で処分されたが、モネの「松林」は他の絵画群から切り離される格好で、鶴巻の裁量に任された模様だ。絵画の作品群はヤマトロジスティクス東京美術品公募展センターと大星ビル管理の日比谷トランクルームの2か所に預けられていたが、すでに触れたように、鶴巻は平成9年頃から金融機関に担保の解除交渉を始め、平成14年頃にはようやく解除の目処がつき、鶴巻は債権者にその旨を提示していたのである。
その後の具体的な経過は不明だが、鶴巻が体調不良を理由に債権者の所へ岡田が定期的に出向くことになり債務承認書(念書)を書き換える中で、債権者は絵画、特にモネの「松林」を処分して返済原資に充てる話をその度に聞き、また処分が遅れている話を岡田から聞くばかりだった。ところが、平成19年4月12日、実はモネの「松林」は密かに銀座のギャラリー早川に売却されてしまい、売却価格の3億1000万円はその日のうちに日本トライトラストの口座に振り込まれたのだった。売却の指示は病床にあった鶴巻自身がしたというが、しかし、その事実は債権者には知らされないままで、岡田の債権者への対応はまさに裏切りだった。さらに岡田による言い訳だけの裏切りの日々が数年続いたが、まさに詐欺の常習犯と言える。

とはいっても債権者はただ手を拱いていたわけではなく、岡田を介して何度も鶴巻の妻道子との面談を要請していたが、道子は体調がすぐれないとか、他に用事が出来たといった理由で日延べするだけでなく、面談の約束が出来ても当日になると突然にキャンセルするということが3年以上にわたって50回以上も繰り返された。
債権者と道子の間に入った格好の岡田は、面談がキャンセルになった理由を道子のせいにしていたが、岡田が本当に道子に面談の必要性を説いて説得していたのかどうか、債権者には少なからずの疑念があった(後日、道子と岡田が2人で計画してやってきたことと思わざるを得ない事実が相次いで判明した)。
そうした中で、デルマークラブが所有していた目黒平町の土地に対しては平成9年から競売の申立が何度か起きていたが、その度に中断していたものの、平成20年6月にメディアトェエンティワンが申し立てた差押えが認められたことから、債権者も放置できずに何としてでも道子との面談を実現させるため、態度を曖昧にしていた岡田に強く要請した結果、ようやく平成23年11月1日、目黒の都ホテル(現シェラトン都ホテル東京)での面談が実現した。

道子は待ち合わせのホテルに単独ではなく、長男の智昭と次女の晴美、そして鶴巻の会社の社員だった田中泰樹を同行したが、予定の時刻に15分以上も遅れたことに詫びるでもなく、また、鶴巻が死亡してから3年間、債権者が何十回も面談を要請しながら当日になると断ってきたことへの謝罪もしないまま債権者が待つ席に長男と一緒に座った。そうした態度に債権者は先ず不快感を抱いた。
そして債権者が貸付金と、その返済にかかる絵画について話を切り出すと、「ご存知のように私は鶴巻とは別居していましたから、社長からの借入金とか、絵画のこととか言われても何も分からない」と言う道子の返答がさらに債権者を不快にさせた。謝意のかけらも感じさせない上から目線のような口ぶりだったからだった。
そのため、債権者が岡田に「絵画はどうなっている? あるんだろうな?」と多少は強い口調で2度、3度と質すと、岡田が「はい、あります」と答えたのだが、すると今度は、同席していた長男の智昭が立ち上がり「おい、いい加減にしろ!!」と岡田に向かって怒鳴りつけたため、岡田も向きになって「表に出ろ」と言い返したことから、あわや取っ組み合いになりかけた。そのため、これ以上は面談を続けられる状況に無く、お開きとなってしまい、道子はどうしても岡田を自宅に連れて帰ると言って、気が進まない岡田に対して「来なさい」と強引な態度を取った。

債権者にとってはただ不快でしかなかった道子との面談は、結局何の成果もなく終わったが、それから1ヵ月半ほどした平成23年12月下旬、岡田が債権者に一通の書面を持参した。その書面は「確約書」と題したもので、債務の返済に関わる絵画(モネの「松林」)の処理、競売の申立が成された目黒平町の土地に係る処理等が具体的に書かれ道子の署名まであったが、その後、この確約書の約束が履行されなかったために、岡田が翌平成24年1月20日付けで前の確約書とほぼ同じ内容の「確約書」を今度は手書きのまま原本を債権者に持参したのだが、これは岡田の創作に基づいた債務返済計画である上に書名も偽造したと主張する道子側と真っ向から対立したのである。(以下次号)

2019.12.12
     

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