2019年 11月 の投稿一覧

恩を仇で返して巨額資金を隠匿 この顔に要注意!!

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[プライベートバンクも「脱税」の同罪]
「鈴木義彦」が証券市場から吸い上げた利益を海外に流出させて、かれこれ20年が経過する。ペーパーカンパニーを数多く設立、購入しては用済みになると潰して証拠隠滅を図っていたはずなのに、いつの間にか、その実態なき会社からコンサルタント料を取る国際ビジネスマンを騙るようになった。
外資系の金融機関担当者の皆さん、この男と取引をすると、いずれ犯罪に巻き込まれるリスクが高まるので、然るべき機関にご相談の上、本誌にもご一報いただきたい。

鈴木は住居登録地(神奈川県相模原市)には長らく居住していなかったから、毎年の税の申告ひとつとっても不明な点が多い。そして、海外に隠匿しているとされる巨額の資金については、主にスイスの複数のプライベートバンクにて、複数の口座を使って運用されていて、その口座名義人として、鈴木が第三者割当増資という手口を使い、外資を装うために用意したペーパーカンパニーの一部が生き残り、例えば、ホーリーマネージメントリミテッド、マジェスティック・インベストメンツ・トレーディングは今も存在している事実が確認されている。それ故、その一端でも表面化すれば、関係当局は鈴木の財産と見られるすべてに凍結の指示、要請を関係する政府、金融機関にかける。いったん凍結された財産は30年間、解除されることはない(その後は事実上没収の対象となる)。事は国税当局だけでなく、金融庁に蓄積されたデータも共有されて実態の解明に向かうだろう。疑惑が持たれている隠匿資金は十数年間の利回りを含めると1000億円を超える規模になっていると思われるが、全額が国庫に没収されることになるから、国税当局や金融庁が動くのは必至だ。ちなみに事情を知る関係者によると、日本国政府が相手国と司法取引で没収という手続に入ると、鈴木を顧客としたプライベートバンクにも厳罰が下ることになるが、相手国にも事実上分配されるのが慣例という。(以下次号)

中古車ブローカー「倉持茂」が会社役員を襲わせた動機(3)

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〔自己破産しても免責は受けられない〕

「金澤は『債務の支払を請求されたら自己破産する』というのが口癖のようだが、何ら責任を果たしていない」という金澤を知る関係者等の指摘がある。会社役員が金澤に対して起こした裁判で、会社役員から預かった車3台のうち1台は「盗まれた」と言って憚らなかったが、それでいて被害届を出していなかったのは辻褄が合わない。地元関係者によるとRが指示をして金澤にそのような主張をさせているという。また、裁判は金澤敗訴で決着がついているのに「クレネ」(当時約4500万円)という車の返却も数千万円の債務返済も一切していない。もっとも、自己破産と言ったところで、金澤は自身が暴力団との関係が深く、また詐欺や恐喝の常習という事実があるだけに免責にはならないことを自覚するべきだ。この裁判については、地元の人間も大勢が知っているので、「債権者は債権譲渡をして、本人に思い知らせるべきだ」という意見も多く聞こえている。

金澤と妻万利子については、関係者によると「万利子は金澤の債務の連帯保証をしていたにもかかわらず、裁判では『ダンナが勝手に印証を持ち出した』と言って責任逃れをしていた。また金澤は『子供に車を買うと約束をしたから』と言って、金を貸すまで帰らないということもあったが、そうした状況は金澤の側近も聞いているし、録音記録もある」という。金澤は会社役員に無言電話を昼と夕方の2回架けていた節があったが、あるとき会社役員が電話に出ると、金澤が「しばらくです。ちょっとお伝えしたいことがあって」という。会社役員が「何かな?」と聞くと、金澤は「実は、関崎(金澤の後輩)が伊東にいる高橋と私の会社の部長だったFの二人を殺すと言っている」などと言う。これには会社役員も怒りを覚え、「それが事実なら、関崎に先ずは私を殺しに来いと言っておきなさい」と言って電話を切ったようだ。これらの会話は全て録音されていて、何人もが聞いているという。高橋とFが裁判で陳述書を書いたことが理由のようだが、金澤という男は本当に始末に終えない。それもまたRの指示があったとも言われている。

また、金澤と妻に問題が起きると「吉村駿一」という弁護士が代理人に就くが、今までに何人もの弁護士が入れ替わっていたのは弁護士費用を払っていないからだった。裁判の場では吉村弁護士が「相手から毎日のように嫌がらせの手紙が来ている」と言った虚偽の主張を平気で並べ立てたり、ガレージZERO(新井)や倉持の件では調査もしないで書面を作成していたが、懲戒を恐れてか途中で代理人を降りた模様だが、弁護士としての資質が問われる。妻万利子にも“魔性の女”という評判が地元では立っているようだし、また金澤も「日常利用している車などは他人名義にしていて、差し押さえられないようにしている」「二人とも再婚で何人も子供がいるが、地方都市では特に子供たちの将来に影響が出るのではないか、という話もある」(地元関係者)という。

このように周辺が混とんとしている中で、倉持はいずれ出頭せざるを得ないのではないか。襲撃事件を起こしたのは、先ずは会社役員が所持していた書類の中に倉持関係の書類が間違いなくあると踏んで、それを盗るために会社役員を襲わせたと見られるが、実行犯がスタンガンやナイフで襲ったとなれば話は別だ。

倉持が「(金澤が絡む)大きなバック(暴力団?)が着いたから大丈夫だ」と見栄を張る場面があったことは前にも触れたが、会社役員としっかり向き合って問題を解決するという選択をしなかった倉持たちは親族や関係者等に迷惑をかけていることも考えておらず、しかも反社会的勢力がどこまで倉持や金澤を擁護すると言うのだろうか。すでに組員や準構成員、さらには配下の不良関係者も全てリストアップされているという中で、倉持は余りに軽率な行動を取ったことを反省するには遅すぎたようだ。実際に倉持はもちろん、消防署勤務の息子や病院勤務の娘、さらには実母のことを心配して、倉持の友人が倉持の姉や前妻のところへ行ったこともあったようだが、特に姉夫婦の言動は異常であったと言い、また前妻(美容室経営)と息子も常識のかけらさえなかったと感じたという。今後の動向次第ではリスト化されているという当事者たちを含め全て実名を公にする予定である。(以下次号)

中古車ブローカー「倉持茂」が会社役員を襲わせた動機(2)

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[倉持と金澤が群馬で繰り返す犯罪行為]

会社役員が金澤を知ったのは平成15年頃のことで金澤が倉持にどうしても会社役員を紹介して欲しいとしつこく頼んだのがきっかけだったという。倉持は金澤の悪行を十分に承知していたが、あまりのしつこさに閉口して渋々ながらも会社役員に金澤を引き合わせた。

そのときの金澤は応対がしっかりしていて下卑た印象もなく、会社役員は不信感を持たなかったようだが、それが金澤の手口だと分かっていたので、倉持は「社長に紹介したことを反省しています」と深謝したのを何人も聞いている。後日、倉持と金澤がトラブルになった際に、倉持がそれまで面識の無かったR(前科前歴を数多く持つ暴力団準構成員だったが、現在は資格もないのに弁護士や行政書士を騙る)という男から「金澤の言う事を聞かないと殺すぞ」と脅された事実が法廷に提出された証拠から明らかになっていた。金澤という男は、暴力団と警察の間を都合よく立ち回っているようだが、被害の数が余りに多く、警察も放置するわけには行かなくなっている模様だ。

この事実を知っているネットユーザーが多くいて、前号の冒頭に挙げた投稿につながっているに違いない。もっとも、警察署の捜査員の中には金澤と懇意にしている者もいるようで、「それが金澤の逮捕逃れにつながっているというが、暴力団組員のSほかの名前も多くの関係者から県警に被害届が出ているようで、群馬県民だけではなく、地元の暴力団員の間でもSは好き放題やっているという。前述した倉持の事件にもSが何らかの形で関与している疑いが強いという情報が、実は数ヶ月前に地元関係者から寄せられていた。Sに対しては、地元からの突き上げも起きているようで、本家から然るべき処分を受けるのではと噂になっている。そうなれば、ほかの暴力団組織の連中から今度は逆にトコトンいじめられる存在になる」(地元関係者)と言われているが、本人は全く気が付いていないようだ。

前述したように、金澤という男は人当たりの善さで人を騙し、一人当たり数百万円から1000万円以上の被害を続出させている事実が判明しており、さらに言えば、金澤の妻(万利子)もまた「新しく店舗を開くに当たってオーナー側に内装工事をさせておきながら家賃を払わず工事費もオーナー側に負担させたまま引き払うことを常習にしてきた」(事情を知る元従業員)という。「妻の店舗出店の交渉はもっぱら金澤が担っていた」(前同)というから、ネット上では最悪の夫婦として有名になっているので、変装でもしないと外を歩けなくなるのでは、と言われている。妻の万利子については最初は同情の声もあったようだが、今では何事につけ金澤に指示をするほど金澤以上に悪い女との評判である。ちなみに元従業員によると、妻の万利子は「自分の亭主が何をしても金になれば良いと考えているような女で、時には男性従業員を脅すことがある」という話も噂として広がっているという。

問題は、金澤が前述したように広域指定暴力団に関係した当時の人間関係と、地元の暴力団関係者をバックに常習的に詐欺や強迫、恐喝を繰り返しているという事実があることで、倉持もまた金澤に引きずられるように犯罪に加担し、揚げ句、殺人未遂及び殺人教唆事件まで起こしてしまったという結果につながったのではないかと指摘する地元関係者も多くいる。

「現在、倉持は10日で1割の金利を取る高利貸しをしていて、取立てはヤクザ顔負けのきついことをやっているが、場合によっては闇金融業で摘発を受ける可能性も高い」と地元関係者が言っている。その情報は県警も承知しているに違いない。それ故、いくつもの犯罪を疑われる倉持と金澤について今後は警視庁と県警で情報が共有され強い監視下に置かれる可能性は高い。特に両人の反社会的勢力との関わりについては今後も、徹底的に情報収集するという。

倉持は金澤の関係で暴力団員やその関係者と新たに知り合っているが、自身も若い頃からテキヤ(縁日や盛り場などで露店や興行を営む業者)のようなことをやっていた模様で、身近に反社会的勢力の人脈があったから、今回の襲撃事件を機にそれも浮き彫りになる可能性は高い。

Rが会社役員を相手に起こした訴訟で、金澤はRとの関係について「Rのせいで自分は群馬での信用を全て失くした」という陳述書を法廷に提出したが、数多くの詐欺を働いていると疑われている金澤とRは“同じ穴の狢”にしか見えず、金澤のことを“コウモリ”と仇名する向きもあるようだ。ちなみにS(暴力団員)、Rほか女性プロ歌手のNが、建設会社社長を騙して7000万円に上る詐欺(美人局)を働いた、という情報も出ている。またRは法律の知識を悪用して弁護士や行政書士を騙ってもいるようだが、いずれも犯罪行為で罪は重い。(以下次号)

株取引の利益総額470億円を生み出した手口(5)

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[ステラ・グループ立ち上げは鈴木による新たな暗躍舞台]

西義輝が書き残した「鈴木義彦がユーロ債(CB)で得た利益について」を取り上げるのは今回が最後となるが、宝林株に始まる鈴木と西の株取引の実態がいくらかでも実感されたと思われるが、そうであれば、裁判官は株取引の基になった「合意書」を何故無効と断定したのか? という疑問が残るに違いない。

今回取り上げる「エルメ」はエフアール(なが多 クロニクル)と同様に「アポロインベストメント」と社名を変更した後も鈴木はユーロ債の発行、第三者割当増資の実施企業として何度も利用した。

「2002年(平成14年)5月に総額約12億円(44円/2700万株)を発行した」という中で「これは宝林で協力を戴いた平池氏の案件であり、エルメにユーロ債を発行させる運びとなった」ということから鈴木のみが引き受けることになった。

「当初の約束では、平池氏に対して割り当てた株数のうちの100万株を割当価格にて譲渡する条件」で、平池がユーロ債発行に尽力し、株価も一時329円まで急騰して鈴木は約20億円の利益を上げたが、約束を破り平池には100万株を渡さなかった。「平池氏は鈴木氏に大変な憤りを感じ、後にあらゆる鈴木氏の身辺調査をすることに」なると記しているが、鈴木の身辺ではいつも同じようなことが起きる。鈴木が平気で人を裏切り、利益を独り占めにするからだ。

なお、前述したようにエルメはアポロインベストメントと社名を変えたが、「2005年(平成17年)春に、約23億円(44円/5300万株)にてユーロ債及び新株予約権を(鈴木は)引き受け、約30億円の利益を得た」という。そして翌平成18年以降、アポロインベストメントはステラグループと商号を変え、同興紡績ほかいくつもの企業を傘下に治めて行ったが、これは全て鈴木の差し金によるものだった。グループには不動産取引を扱う企業もあり、鈴木の友人、青田光市も日常的にグループの本社に“勤務”するような行動を取っていた。

これまで見てきた主要な株取引に加えて、鈴木は数多くの銘柄にも手をつけていたが、イチヤ、南野建設、シルバー精工、エスコム、オメガプロジェクト、東海観光などその数は20前後にも上る中で約25億円の利益を上げていたという。こうして鈴木が国内外に隠匿した利益の総額は470億円を超える巨額に達した。

鈴木が仕掛けた銘柄で常に巨額の利益を確保してきたことに、不可解で有り得ないと思われる読者も多くいるに違いない。それは当然のことだったが、そこにはカラクリがあった。西の存在である。「エフアール」のところで紹介したように、西は株価買い支えのために12億円の損失を蒙りながら、鈴木は利益を応分に負担も分配もせず独り占めした。つまり、西が株価を買い支えるために資金支援を仰いだA氏が損失全額を被ったことになる。

1999年(平成11年)から2006年(平成18年)までに、A氏が西の要請に基づいて支援、協力した資金は総額207億円にも上ったというが、全ては「合意書」に基づいてのことであり、当然、鈴木は国内外に隠匿した利益をA氏や西に分配しなければならなかった(ただし、西は鈴木との密約で30億円を受け取っていた)。

平成18年10月16日に、その分配をめぐる三者協議が持たれて、鈴木はどこまでも「合意書」を否定したが、紛議の解決のためと称してA氏と西にそれぞれ25億円、そしてA氏には2年以内にさらに20億円を払うと約束して「和解書」が作成されたが、その後、西が蒙った損失総額207億円の内、鈴木関連の買い支え損が58億円超であることを鈴木がA氏に確認した上で、「それを清算した上で利益を3等分する」ということまで口にしながら、約束を反故にして行方不明を決め込んだ。こうした事実が「合意書」から「和解書」に至る7年間に連綿として積み上がっていたにもかかわらず、裁判官はその全てを無視してしまったのである。 (以下次号)

株取引の利益総額470億円を生み出した手口(4)

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[新株売却を違法に仕掛ける]

次に「ヒラボウ」(現OAKキャピタル 東証2部上場)である。「時期は2001年(平成14年)、発行価格は15億円(90円/1600万株)になる」と西は明かした上で鈴木が80%、西田グループが20%を引き受けた。そして、鈴木が得た利益は約20億円であったという。

「この件の担当責任者は、元山一證券スイス駐在所長の茂庭氏でした。私が当時経営していた、日本橋ノモスビル5F内にある投資会社、ファーイーストアセットマネージメントと同フロアに、ユーロベンチャーキャピタルを設立し、ファーイースト社の一室にて茂庭氏が運営代行を行っていた」

山一證券は1997年(平成9年)に自主廃業に追い込まれたが、その原因となったのが1988年9月6日に社長に就任した行平次雄が、バブル崩壊後の株価暴落によって発生した含み損を適切に処理せず、先送りを繰り返した結果、簿外損失が2000億円を超える額にまで膨らんだことにあった。損失を隠すための“飛ばし”の現場が実はヨーロッパ各国にあり、茂庭も簿外損失を隠す中心的な役割を果たしてきた経緯があったことから、そのノウハウは鈴木にとっては、まさに利益隠匿で大いに役立ったに違いない。

「このユーロ債に関しては、ファーイースト社別室にて、茂庭氏立会いの下、鈴木氏の親交ある金融ブローカーや、来社したヒラボウ内部の人物に対し株券の受け渡しを実行しました。鈴木氏は、これらの金融ブローカー会社を3~5社使用し、ヒラボウの新株売却を担当させていた。目的は、自分の名前を出さないことと、本来日本ではすぐに売却できないユーロ債で発行した新株を少しでも早く売却させるためでもあった」

「一方では、西田グループに対し、割当価格の1~2割増しの金額で安く譲渡し、株価上昇に対する協力をさせ、自分が多大な譲渡益を得る工作もしていた」と言い、こうした工作により、鈴木は大量の新株を捌くことに成功したという。ちなみに、金融ブローカーの中で中心的だったのが「吉川某」という元反社会勢力の人間で、宝林株に始まる初期の株取引で吉川も大きな利益を手にしつつSECの目を逃れるようにフランスへ“逃亡”し、以降、同国内に住まっていたという。また、事務所の事務員を愛人として囲い、同じくパリに居住させていたともいう。鈴木は年に7、8回はフランスに出かけていたそうだが、その目的は、もちろん香港経由で海外に流出させた利益をスイスのプライベートバンクに集約させ隠匿する手続をすることにあったろう。

ただし、その後の吉川の消息については知る者が無く、それを鈴木に尋ねた者がいたが、鈴木はあっさりと「あいつは死んだよ」と答えたという。「ある時期から鈴木と吉川の関係がこじれたようで、鈴木が吉川を詰るような口ぶりに変わっていたが、まさか鈴木から『あいつは死んだよ』なんていう話を聞くとは思わなかった」という。最後は「住倉工業」だが、西によると「2002年(平成14年)、割当金額が10億円として鈴木氏と西田グループが合同で引き受けたユーロ債だった」というが、全株式を売却する前に住倉工業が倒産してしまったために、最終的な利益は約3億円に留まったという。 (以下次号)

悪のレジェンド「種子田益夫」に新たな訴訟(8)

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〔息子吉郎は真摯に債権者と向き合え〕

種子田益夫の息子(吉郎)は各病院の理事長として、例えば「患者様の意思を尊重し生命の尊厳とプライバシーを守り……」(宮崎医療センター病院)とスローガンを謳って、一人ひとりの患者に寄り添った医療を目指していると強調するが、当の吉郎自身が債権者に対してはまるで逆の対応をしているのだ。そのように明らかな二面性を持った生き方を大学卒業から今日まで約30年以上も続けてきた吉郎並びに表向き吉郎が率いてきた病院グループを、仮に一人の患者としてどこまで信用、信頼して命を預けることができるものだろうか? 極めて大きな疑問である。

「父親が作った巨額の負債は、病院を買収するための財源に充てられたもので、債権者からすると貸金が病院に化けたと言わざるを得ない。吉郎が父益夫の巨額の債務を『私には関係ない』と言い続けること自体あまりに身勝手すぎ、父益夫の債権者を始めとする関係者と真摯に向き合う責任を負うのは当然のことではないか」と関係者が言うように、いつまでも吉郎の姿勢が通るはずは無く、また周囲もそれを許して見過ごすことなどあってはならない。

債権者にとって、種子田に対する債権が発生してから訴訟を起こすまでにかなり時間が空いているが、それは前に触れたとおり、ただでさえ返済の話になると部下を債権者に差し向けて自分は逃げ回っていたのに加えて、種子田は分かっているだけでも3つの金融機関を破綻に追い込むような不正融資を受けて刑事事件となり、数年間は事実上本人と接触が出来ない状況にあったからだった。また、種子田の背後に控える反社会的勢力の存在が大きく影響したと言っても過言ではない。それについては関係者が次のように語る。

「種子田のボディガード兼運転手だった男に種子田が収監される前に『預かっておいてくれ』と言って頼んだ段ボール箱10数箱を、密かに債権者の会社に運んできた。男にしてみると、種子田の債権者に対する対応が余りに悪過ぎて、平気で人を騙し、種子田本人が実業と嘯いたゴルフ場経営は破綻寸前で担保価値など無いのに、価値があるかのごとく振る舞い金主を騙す行為を繰り返してきた。しかも、それでいて金主から集めた金を病院の買収や設備の拡充で積極的に集中的に使いながら、これは私的財産として誰にも渡さないよう工作する、などといったやり方が腹に据えかねたということだった。

段ボール箱が債権者の手に渡ったということで、種子田の後ろ盾になっていた日本有数の暴力団山口組芳菱会のNO.2がそれを返せと言って債権者に対し『タマを取るぞ!』という脅しの電話を何回もかけてきた。債権者にそんな脅しが直接入ったことが数回はあった模様だが、その後は芳菱会の会長(故瀧澤孝)自身が直接面会してくるようになり、債権者は外出で会社を不在にすることが多かったことから部長が対応したのだが、部長によると瀧澤は『ワシは持病があって命は長くないので、命があるうちは種子田から頼まれればどうしても関わらざるを得ない』と言ったという。瀧澤は言葉は丁寧だが、やはりトップとしての迫力があったようだ。次いで瀧澤は『種子田だって少しは返しているのだろう?』と尋ねたそうだが、部長が『最初の一部だけで、その後は一切ありません』と答えると、しばらく黙った後に種子田のやっていることは、正直ワシも許せんと思ったことが何回もある。息子の吉郎は父親が病院を利用して債権者を騙していることを良く知っていて知らん振りを通している。種子田自身がゴルフ場を担保にしながら、病院も事実上の担保になっていて、いつでも必要であればお返しすると息子の吉郎が明言しているなどと言って時間を引き延ばしてきた。吉郎もそれに同調していたので、父親以上に悪質だ』と言ったので、部長は意外に思ったそうだ。そして、瀧澤は『ワシの用件を社長に伝えてくれ。ワシの死後は種子田に全額請求していいから』と言って帰って行った。その後も瀧澤は事前に連絡もなく会社に現れ、そのたびに部長が対応していた。社長の意を受けた部長もまた余計な話はせず、黙って瀧澤の話を聞いた後に『社長に伝えます』という返事をして終わるという面談が何回もあった。そして『様子を見ます』という社長の言葉を部長が伝えると、それが面談の最後となった。瀧澤は部長に草津の別荘の権利証(当時約300万円の評価)を渡した。部長が『これは受け取れません』と返したが、瀧澤は『受け取ってくれ。これは気持ちだから』と言って権利証を置いたまま帰った。以後、瀧澤が来ることはなかったそうだ」

債権者に対して、病院の一部でも売却して返済原資を作るという話をすれば、問題は支障も無く解決するという簡単なことが種子田の発想には全く無いから、反社会的勢力を使ってまで、債権者を屈服させようとしたに違いない。

種子田益夫、そして息子の吉郎もまた社会的道義的責任を取るという、人としての基本的な資質が明らかに欠落している。複数の医療関係者によると、「茨城県内でも有数の病院である牛久愛和総合病院は公共的に重要な責務を負っている。現在の理事長にかかる不祥事は明らかに理事長として不適格であるので、理事長本人で解決できないと言うならば、公正な第三者委員会を設置して検証する。その上で理事長の責任を問い、新たに選任した理事長の下で債権債務の問題を解決するのが最良の方法ではないか」という。極めて筋の通った話で、そうであれば、債権者も納得するのではないか。

すでに本誌にも息子(吉郎)の理事長としての資質に疑問を投げかける読者よりのコメントが相次いでいるが、種子田にかかる記事が読者の注目を集めている証左であるのは間違いない。多くの関係者が言う。

「債権者は知人を金銭的に巻き込んだことで、過去約25年という長い間、重大かつ深刻な事態が続いて来たが、今回の訴訟で何としてでも全面的な解決を導き出したい、と債権者やその関係者全員が考えている」

今後も種子田関連の情報を継続して発信するが、少なくとも種子田に関してこれだけ関心が高まっている中で、マスコミ各社の司法クラブの記者は裁判を傍聴し、種子田本人はもちろん、息子(吉郎)や病院にも直接取材の動きが起きるものと思われる。現にテレビ局を始め取材のオファーが目立つようになっているのは、その動きが始まっているということであろう。読者そして世間一般の常識が種子田益夫、吉郎父子には通じず、また世間の声を聞こうともしない両人にはコンプライアンスの対応はもちろんのことだが、全て公の情報として追及の手を緩めない姿勢で今後も読者の声を反映させながら記事化を進めていきたいと考える。(以下次号)

株取引の利益総額470億円を生み出した手口(3)

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[株価の吊り上げで伊藤忠商事元役員を社長に]

続いて「昭和ゴム」、「ヒラボウ」そして「住倉工業」を取り上げる。西のレポートによると、鈴木は「昭和ゴム」で約40億円、「ヒラボウ」では約20億円、そして「住倉工業」では約3億円の利益を上げたといい、これら3銘柄の株取引でも西田グループとの関係は密接だった。以下、それぞれの銘柄について触れる。

先ずは「昭和ゴム」だが、「これは、鈴木氏及び西田グループとの合同で発行されたユーロ債で、2000年(平成12年)6月、発行金額は11億3000万円(113円/1000万株)だった」という。

「その内、鈴木氏の引き受けた金額はおよそ8億円であり、西田グループがおよそ3億円」だった。鈴木が40億円もの利益を獲得したのは株価が700円前後まで急騰したからで、約6倍の値で売り抜けたことになる。

鈴木は株価を吊り上げるために「IRにおいては私の名前を活用して、伊藤忠商事の元役員を社長に招いて、全面的に株価の吊り上げが行われた結果である」という。

なお、西田グループの“総帥”である西田晴男(故人)については余りにも有名で、いまさら説明など要らないと思うが、同人が手がけた銘柄として有名になったものの過半数は鈴木が巨額の利益を上げて隠匿したとされる銘柄と一致している。また株取引への取り組み方として西田は自らの証券口座だけでなく銀行口座さえ持たずに周辺関係者の口座を使うこと、預金や不動産などの個人資産もほとんど無く、周辺関係者の口座に溜まった潤沢な資金のみだったという点は、そっくり鈴木にも当てはまっている。社債や株式の取得名義人は鈴木がタックスヘイブンに用意した外資を装うペーパーカンパニーであり、株価を高値誘導するのは西や西田グループ、そして取得した株の売りを任された紀井は外資名義で証券金融会社を経由して取引することで鈴木の名前が出ないよう二重三重の煙幕を張る慎重さだった。恐らく鈴木は、株取引で西田の相場作りでの協力を得るだけでなく、その取り組み方すら取り込んだに違いない。西田の“資産”も鈴木が隠しこんでいると言う関係者も少なくない。(以下次号)

株取引の利益総額470億円を生み出した手口(2)

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[西田の側近[白鳥女史]は海外へ逃亡]

西のレポートは次にアイビーダイワの現場に触れている。

「これは2000年(平成12年)5月に実行された。これは鈴木が主導で行ったわけではなく、西田グループの東京事務所で秘書をしていた女性、白鳥女史が中心となり行ったことだった。

およそ70%を白鳥女史、20%を鈴木氏、残りを西田グループの出資にて、およそ12億円(50円/2400万株)のユーロ債を発行した。したがって鈴木氏が引き受けた金額はおよそ2億4000万円であった。

その後、株価は700円前後まで急騰し、利益が約10億円となる。これも鈴木氏および西田グループによる株価操作によるものであり、大変なIR活動、国内の証券新聞および投資顧問会社等への資金提供により、一般投資家に多額の購入を持ちかけた結果でもある」

鈴木と西田晴男との関係は最初の宝林の株取引から密接で、西による株価の買い支えはもちろんあったが、西田グループによる活発な株の売買によって、宝林株はピーク時で2300円の値をつけた。西は1株37円で宝林株を取得することに成功していたから、単純に計算しても63倍近い値で売却したことになる。それ故、鈴木がその後の銘柄選びや株取引で西田グループを重宝がったのは頷けることだった。

「また、この件の中心人物である白鳥女史は、このユーロ債にて15億円以上の利益を上げることができた。ただ、白鳥女史にSEC(証券取引等監視委員会)および国税庁(東京国税局?)から内偵調査が入り、彼女は2002年(平成14年)にヨーロッパへ逃亡し、未だ帰国ができない状況である。ちなみに鈴木氏は、東京オークションハウスの第三者割当増資の際に、私からも要請したものの、自分の資金を使わず、この時に多額の利益を上げた白鳥女史に2億円の増資(出資?)を実行させている」

鈴木は、西との間で利益を折半すると言っていながら、実際には西に対しても分配を先延ばしにしていたことがエフアール、アイビーダイワという2件の株取引の現場を見ただけでも分かる。西が分配に預かろうとして、東京オークションハウスの第三者割当増資を持ちかけても、鈴木は自身では一切協力することなく、白鳥女史に2億円を出させた。鈴木の下で株の売り抜けを任されていた紀井は「鈴木氏の人間性を見ていて、金への執着心は凄いものがあるが、度が過ぎると毒でしかない」と裁判で証言したが、これはまだ優しい言い方で、西への対応で同様の言動を見ると、鈴木はあまりに強欲で、ここまでの悪党はいないのではないか、と関係者全員が言う。

次回も西のレポートを続けるが、読者より多くの注目を戴く中でさまざまな情報が寄せられているため、取材等を進めつつ適宜発信していく予定である。また、記事の内容に重複があるかもしれないが、読者よりの問い合わせに応じた結果、ということである。(以下次号)

株取引の利益総額470億円を生み出した手口(1)

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[相場師「西田晴男」の関与で莫大な利益]

これまでに西義輝が自殺する直前に鈴木義彦ほか関係当事者に宛てて遺した書面(遺書)の一部を公開したが、西が書き記した書面はこの他にいくつもあった中で「鈴木義彦がユーロ債(CB)で得た利益について」と題するレポートには冒頭に「宝林以外のユーロ債の発行、売却についての詳細を記載する」とあるように、エフアールから始まり9銘柄の手口が具体的に書かれている。

貸金返還請求訴訟で、裁判官が西の陳述をほとんど無視したことは触れてきたとおりだが、このレポートを読む限り、裁判官が無視した真意が分からず、不可解でならない。

第一に挙げている銘柄はエフアールで、「時期は2000年(平成12年)、1株あたり50円にておよそ50億円のユーロ債を発行し、100~360円で売却を行いました。但し、これも一部西田グループに割当株を譲渡し、協力を依頼しているため、鈴木氏の利益は約40億円です」

鈴木と西は株取引を行う際に、大量の株を取得するためにユーロ債(CB)や第三者割当増資を鈴木がタックスへイブンに用意したペーパーカンパニーが引き受けた後、西が株の売買を繰り返して株価を高値で買い支える中で取得した株を売り抜ける、というのが手口だった。

「エフアール社のユーロ債発行後、鈴木氏は私に対し、『800~1000円まで株価を上昇させるので、350円前後で買いを入れてください』との指示をしました。私は言われたとおりにおよそ600万株の買付を数日間に亘って行いました。しかし、この指示は鈴木氏が私を利用して株価を上げさせるための罠だったのです。

この時に私が使った金額は、ファイナンスを活用したため約8億円前後だったと思います。しかしながら、私が株の買付を行った直後、株価は暴落基調に入りました。最終的には平均160円前後で全株式の売却を行わなければならない羽目となり、私は約12億円の損失を蒙りました」

鈴木は、西が蒙った損失の言い訳とその損失の補填について、「西田グループが先に株を売却してしまったために売れなくなった」と言い、「後で必ずエフアール株の上昇により補填を行うから、待っていて下さい」と言ったが、その約束が実行されることはなかった。

「紀井氏は、鈴木氏の指示で、ユーロ債にて得た50円の割当株を売却した中で残りの株は1~2カ月程度の期間のうちに売り下がりにて、下値120円までで売却をしている」という。下値でも2.4倍の価格で売却したのだから、鈴木が40億円の利益を上げたのは実感できる。

問題は西が蒙った12億円の損失の処理だった。株取引をスタートするに当たって交わした「合意書」に基づけば、40億円の利益から株式取得ほかのコスト、西の損失額、東京オークションハウスの手数料(10%)等を差し引いて後にA氏と西、鈴木で三等分することになっていたが、西と鈴木は利益を二人で折半する密約を交わしていたから、A氏には一切報告をせず分配金も渡さなかった。しかし、前述したように鈴木が一向に西の損失を補填しようとしなかったために、西は鈴木に確認を求めた。「その後2001年(平成13年)の鈴木氏との打ち合わせの中で、私は損失補填の要求をしましたが、それまで見たことも無い彼の態度と言動により、彼の本心、性格を知ることとなりました」

具体的なことは書かれていないが、鈴木がものすごい剣幕で西に詰め寄り、損失補填の要求を引っ込めさせたことが分かる。そして同時に、鈴木が利益を独り占めして国内外に隠匿して行った実態も窺えるのだ。

ちなみに、鈴木は親和銀行事件で逮捕、起訴された後、表向きにはエフアールの代表権が無くなり、保有株の名義も無くなったが、実際にはそうではなく社名を「なが多」「クロニクル」と変更した後も常務の天野裕に指示をしてユーロ債の発行や第三者割当増資を実行させるという影響力を行使した。

西のレポートにも、「2005年(平成17年)に66億円(37円/1億8000万株)の新株予約権を引き受け」たとあり、およそ半数の株式売却に成功して約30億円の利益を獲得したという。売ることが出来なかった株式は香港のペーパーカンパニーやプライベートバンクに保管されたが、株価が極端に下がり株式に転換するタイミングが無かったともいう。(以下次号)

中古車ブローカー「倉持茂」が会社役員を襲わせた動機(1)

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[凶器はスタンガンとナイフ]
数年前より北関東地域から盛んに情報が寄せられている中に、過去数年間、インターネット上で連日のように「詐欺師」呼ばわりされてきた男がいるという記事があった。この男がネット上で数千件以上に及んで“標的”にされるのは、本当に詐欺を疑われる行為を繰り返し、数百万円単位から時には1000万円以上の被害を受けた人たちが数多く続出しているという情報が投稿者たちより無数に寄せられているからだ。しかも、この男、金澤(福島)明彦は、過去に広域指定暴力団の準構成員の男の配下として活動していた経歴から、被害者を軒並み脅かして警察への被害届けを封じ込め、泣き寝入りさせたことで、金澤を前面に立てながら数人の暴力団関係者(S、Rなど 後述)が関与している情報を群馬県警では掴んでいるが、ギリギリで逮捕を免れてきた模様だ。ネット上ですっかり有名になったからか、金澤は数年前より夫人(4~5人目)の姓である「福島」に変えて同様の詐欺行為を働き続けているという。

さて、今回取り上げる人物は、金澤(福島)とは30年来の付き合いがあり、今は共に地元の不良たちとつるんでいる倉持茂という男である。もちろん金澤とともに群馬県警にもマークされているが、それに加えて昨年12月に3人の不良を使って。都内の会社役員を襲撃する強盗傷害、実際には殺人未遂事件を引き起こして、警視庁もマークしている状況にある。

昨年12月11日の午前10時過ぎ、会社役員が出勤するためにマンションを出てすぐの路上で、突然、背後から首筋にスタンガンを当てられ、会社役員は一瞬意識を失いかけ転倒したが、このままでは殺されるという咄嗟の判断から起き上がって、怯んだ実行犯を捕らえようとしたところ、3人の実行犯のうち2人が前後から向かってきたが、会社役員は実行犯の1人が持っていたスタンガンを奪い取って車道に投げた。すると今度はナイフを取り出して再び襲ってきたので、それも取り上げようとしたが2人同時だったために何か所も革ジャンの上から切りつけられた。それでも会社役員が怯まなかったため、実行犯の1人が「早くやっちまえ!!」と言ったが、抵抗が強かったことから「こいつヤバイ、早く逃げよう!!」と残る2人に声をかけ、待機させていた車に急いで乗り込んだ。会社役員が車の左ドアに手をかけてドアを開け、取られた大事な書類の入った袋を右手で取り返そうとしたが2人の力には勝てず、その状態で車が急発進したため会社役員は再び路上に投げ出され左足首を後輪に轢かれてしまった。直後に救急車で搬送された病院での診断ではナイフで革ジャンの上から切られた傷が数か所、肋骨も4本折れていて全治3ヶ月ということだったが、後日の検査で左足首骨折が分かり、10ヶ月経っても未だに完治していない模様だ。

会社役員を襲った実行犯の男たちは、その後、新宿署に逮捕されたり自ら出頭したが、「倉持から頼まれて会社役員を襲った」と警察に捕まる前に自分たちの友人等に話していたため、今のところは強盗傷害(会社役員が襲われた際に書類の入った袋や財布、金庫の鍵等を盗まれた)の容疑に留まっているが、実行犯の中にナイフを所持している者がいた(会社役員は何か所も切られた)ことに加え、近づくこともできず遠巻きに見ていた人たちも「暴漢たちが会社役員を殺そうとしていたように見えた」と証言していることから、倉持が逮捕されれば容疑が殺人教唆に切り替わる可能性は高いとされる。
倉持の関与については、襲撃事件が起きたことを誰も知らない時に、倉持が当時は一番の友人に電話をかけてきて「社長の会社に電話したら、社長が事件にあったと部長から聞いた」と言ったという。また、事情を知る関係者によると、倉持は以前より懇意にしていた元暴力団組長のU氏にも事件当日に会っていて、事件の話をしていたという。しかしこの時はまだ事件が起きたことさえ誰にも知らされておらず、それにもかかわらず倉持は知っていたことになる。また、会社役員は自宅を引っ越して間もなくのことで、住所変更の手続きもしていなかったから、そのことも倉持とその関係者の2~3人以外は知らなかった。
事件後、関係者が新宿警察署の捜査員から聞いて驚いたのは、倉持が上京のたびに「飲みに行きたい」という飲食店(クラブ)に会社役員が何回も連れて行ったが、そのクラブの近くに襲撃の際に使われた車が何度も停車していたのが防犯カメラに写っていたことだった。この車両は、実は倉持がオークションで落札したものだった。そうであれば、犯行が計画的だったこと、しかも倉持が深刻に関与していたことを強く窺わせる。
ちなみに実行犯は会社役員を襲った際に金品よりも書類袋を狙っていた。書類袋の中に倉持の関係書類が入っていると踏んでのことではなかったかと関係者は言う。倉持の関係書類とは、倉持が会社役員から借り入れした金銭の借用書などの書類で、事件の直前で言えば倉持は11月末の支払予定を先送りしていた返済金の一部を12月7日に持参すると言いながら、さまざまに理由をつけてさらに先延ばししていたのだ。しかも事件後は一切倉持から連絡がなかった。そのことからも、倉持の関与がなおさら濃厚となっている。

倉持は埼玉県内で中古車販売を手がけ店舗は4~5店舗を県内に展開していたが、経営は鳴かず飛ばずで、事情を知る関係者によると、この頃にも3人で組んで刑事事件を起こしていたが、ディーラーの担当者が一人で罪をかぶったために倉持には及ばなかったという。その後、倉持は何とか商売に弾みをつけたいという希望から、会社役員の保有するスーパースポーツカーを店舗に展示してカーマニアの呼び込みを図ろうと計画し、それを会社役員に持ちかけた。
会社役員も倉持の話に快く応じ、20台以上を無償で貸したことから、倉持の店舗は一時は車専門の雑誌で大きく取り上げられて一気に日本中で有名となり店舗も繁盛したという。

「1台数千万円とか億円単位のスーパースポーツカーを無償で20台以上も貸し出すというのは、本来なら信じがたい話だから、その会社役員という人は太っ腹としか言いようがない。相手を信用したとしても1台だって貸す人はいないので、中々できることではない」とスーパーカーの業界関係者は言うが、ほとんど全ての頼み事を聞いてきた。

そうした中で、「どうしても買い取りたい車があるので、買取資金を貸していただけませんか」という話が持ち込まれるようになり、会社役員から1000万円単位の貸付が何度かあったが、これは返済されたものの、それとは別にFX取引などで借金がかさんだ揚げ句、会社役員に何回も懇願して肩代わりしてもらい、平成27年現在での借財がFX取引だけでも約19億円にも上っており、倉持自身には返済のめどを立てることが相当に困難になっていった模様だ。中には母親を保証人にした借入金もあった。

「20年以上もの長い間、何から何まで面倒を見てもらったにもかかわらず、金澤の関係で暴力団と知り合ったからと言って、倉持は車関係の仲間等には『自分には大きなバック(暴力団)がついたので何も怖くないし問題はない』と豪語していたようだ」という話が聞こえている一方で、金澤同様、最後は自己破産すれば返済を免れると考えていたようだが、詐欺や横領の疑いがいくつもあるため免責にはならない。(以下次号)

悪のレジェンド「種子田益夫」に新たな訴訟(7)

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〔段ボール箱10数箱が運ばれて〕
種子田が病院を担保にすると言って融資を引き出したにもかかわらず、いざとなると、公共性を盾に担保設定を拒んだり、息子が理事長であって種子田自身は関与していないという主張は、果たして罷り通るものなのだろうか。
関係者によると、「債権者は以前、腓骨神経麻痺症の症状が出て、種子田氏に請われるまま牛久愛和総合病院に1か月以上入院したことがあった。その時の経験から言えば、『オーナー室』という表札のかかった特別室のような広さと設備を整えた部屋があったが一度も使用された様子が無く、また院長以下全職員が種子田益夫氏をオーナーと呼び、種子田氏の客として債権者を最上級でもてなした、ということだった。
種子田氏が病院経営に乗り出してから、債権者から借りた金でいくつもの病院を買収し、力のある医師会や国会議員に頼んで施設の拡充を図り、医師の資格もない息子の理事長就任を図ってきた事実は病院関係者の誰もが知っていて証言している」

種子田が逮捕された平成13年から同14年にかけて、他の暴力団関係の債権者がゴルフ場や種子田の東京と宮崎にある自宅を売却したり競売にかける事態が起きた。そのうち宮崎市内の和風邸宅の競売(平成14年1月)では、種子田のダミーと見られる「汗牛社」が平成15年8月に一旦は自己競落した後の平成17年3月に息子(吉郎)が個人名義により売買で取得し、さらに同年12月に医療法人晴緑会(高知総合リハビリテーション病院と宮崎医療センター病院を経営)に転売したという事実は、まさに病院グループのトップたる息子が種子田の支配下にあることを明確に示しているのではないか。なお、汗牛社が種子田のダミー会社であることは、東京商銀信用組合が事件直後に当該土地に競売の申立をし、種子田(汗牛社)が慌てて資金を調達して自己競落した事実からも明確だった。そのようにみると、種子田が主張して止まない「病院に関与していない」という言葉は絵空事に過ぎず、「病院」という財産を密かに親族名義で蓄え、債権者が手を出せないような構図を構築してきたことに他ならない。そして、法律を悪用して財産を隠匿し、原告関係の多くの債権者を泣かせ続けている行為を決して許容してはならない。私的財産の“本丸”である病院を息子(吉郎)が任せられているのであれば、息子は当然実父益夫の負の部分も引き継がなければ不当と言わざるを得ない。

「種子田の側近だった田中(延和)や梶岡が辞めるときに、債権者に挨拶に来たが、種子田には本当に悪すぎてついていけない、債権者の前でも何度も涙を流して借金を懇願していたが、それも全てジェスチャーで帰りはいつも『してやったり』のにが笑いであったと言っていた」
田中も梶岡も種子田の借金の返済で債権者たちに言い訳ばかりを言わされていたが、側近ですら庇う気にもなれないほど種子田は悪すぎるという。種子田は灰皿や食器一つを割っても「これは、全部、自分のものだ」と言って怒鳴りつけたが、500億円以上の債務を負っていながら責任を果たさず、息子(吉郎)の支配下に置くようなやり方は決して許されることではなかった。まるで人を騙すことが生き甲斐になっているのではないかと思われるほど、種子田は牛久愛和総合病院をエサにして債権者たちを騙し、病院という事実上の私的な蓄財を息子(吉郎)に託してきた。田中は種子田益夫からもらった高級時計を息子(吉郎)が理事長についた後に返したという。また、どれだけ貢献したか分からないほど頑張った田中への退職金は、たったの100万円だったという。

息子(吉郎)が中核となる牛久愛和総合病院の理事長に就いたのは日本大学(芸術学部)を卒業して間もなくのことで、もちろん当時は医師の資格が無ければおいそれと理事長には就任できなかったし、またその後、父益夫が全国7施設の病院を買収していくたびに息子(吉郎)が理事長に就いていったが、息子(吉郎)に病院を相次いで買収する財源があった訳でもなかった。そのような父益夫の“ダミー”に過ぎない息子(吉郎)が理事長としての社会的責任をどこまで自覚して果たしてきたのかは大きな疑問である。

息子(吉郎)にとって最大の疑惑は前述したとおり、昭和50年代後半から同60年代初めにかけて医師の資格が無ければ理事長には就任できなかった課題をどうやってクリアーできたのか、という点である。つまり息子(吉郎)が理事長に就いたのは“ウラ口”であり、そのウラ口は多分に違法性の高い特殊なものだったということになる。

種子田の側近だった田中延和が陳述書に「(吉郎)が大学を卒業したのを機に一ヶ月間アメリカの医療状況を見るためにツアーに参加した」と記しているように、それが息子(吉郎)にとっては病院経営の始まりだった。医師の資格はないから、当然知識や情報も積み上がらず、経験とノウハウも無いまま「大阪、高知、九州、牛久の4ヶ所の病院をコントロールすべく東京本部を創り」、田中が専務、吉郎が常務に就いて、全て種子田益夫の指示に基づいて具体的な方針を実行し運営に当たっていたという。種子田が全国の病院を買収し、グループを形成していく中で東京本部は次第に拡充していくが、吉郎はそこにアグラをかいていたに過ぎず、全ては父益夫の指示によって側近の田中が吉郎のためにお膳立てをしたのが実態だった。そして、種子田が刑事事件で有罪となり刑務所に服役すると、これも種子田の指示に基づいて病院グループは積極的に種子田のアイワグループとは一線を画していったという。

しかし、病院の買収や施設の拡充が種子田の巨額債務によって進められ、今日を迎えていることは明白だから、その事実を無視して病院の経営だけを切り離した状況を維持しようとすること自体に問題がある。なお、田中は一歩も二歩も下がったような口ぶりで語っているが、実際には田中がいなければ、アイワグループも病院も現在の形にはならなかった。(以下次号)

悪のレジェンド「種子田益夫」に新たな訴訟(6)

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〔息子(吉郎)もコンプライアンスに抵触か〕
ところで、冒頭にも挙げたように種子田は平成9年に武蔵野信用金庫から受けた融資を巡る背任事件が表面化して警視庁に逮捕される事態が起きた。東京地裁は平成11年6月28日に無罪判決を言い渡したが、控訴審ではそれを破棄して有罪(懲役1年6月)の逆転判決となった。種子田は上告したが、その最中の平成13年10月5日に東京商銀信用組合を巡る不正融資事件が表面化して東京地検に逮捕される事態が起きた。さらに加えて国民銀行が平成12年に経営破たんしたが、その最大の要因が種子田に対する90億円を上回る不正融資だった事実も明らかになった。

この融資には石川さゆりの個人事務所が立ち上げたカラオケボックス運営会社「カミパレス(ドレミファクラブ)」に対する巨額の融資が発覚し、石川さゆりの事業を応援していたのが種子田だったことから、一躍マスコミでも取り上げられることになった。国民銀行の融資で種子田が逮捕されることはなかったが、同行の不良債権を引き継いだ整理回収機構が種子田と石川に対し損害賠償請求訴訟を起こし、最終的に種子田には52億円、石川については10億円の支払い命令が下されたちなみに東京商銀信用組合事件で種子田は平成16年2月、懲役3年6月の判決が下され刑に服した。その後、石川さゆりは返済を続けてきた模様だが、それに反して種子田は返済を滞らせているという。そのことだけでも人間性が分かる。石川さゆりの債務は、元はと言えば種子田が作ったものだ。息子(吉郎)や病院の繁栄を考える前に周囲の関係者にやるべきことをやるという言動が種子田には一切見られない。常に拝金的な考えしか持たないから、そういう発想になるのだろうが、実に浅ましい家族としか言いようが無い。

こうした種子田を巡る刑事事件が頻発したことで、債権者による貸金の回収がままならない状態が数年間続いた。

 

種子田が保釈された後の平成15年5月15日、債権者は種子田の来訪を受け、その場で債務の確認を行ったところ、種子田は否も応も無く認めたという。


「種子田が拘留されたり保釈されても、債権者の前に姿を現すことはほとんどなかったが、それに代わって種子田の部下たちや経理の社員が毎月債権者の下を訪ねて、手形の書き換えや債務確認が行われたが、彼らが返済原資に挙げるのはゴルフ場の売却や会員権であって、病院には一切触れなかった。病院の売却については『社長、一度息子(吉郎 =写真)と会って下さい』という話が種子田の側近の一人で、病院事業の立役者だった田中延和氏から出たが、種子田氏の当時の代理人だった関根栄郷弁護士に止められて実現しなかった。ただし、息子(吉郎)は田中氏から言われ、その後、債権者の代表に電話を架けてきたが、卑しくも病院の理事長とは思えないぞんざいな言葉遣いで『社長さんの関係者は金持ちが多いので、そちらで処理して下さい』と言って、一方的に電話を切ってしまった。もちろん謝罪の言葉はなく、その後も一切電話が架かってくることはなかった」(関係者)

種子田は以前より反社会的勢力との親密関係が指摘され、社会的にはコンプライアンス上で問題ある人物とされてきたのはもちろんだが、息子もまた実父益夫に代わって暴力団関係の債権者に金利を支払っていた事実があるだけに、今後、さまざまな事実が明確になれば実父益夫と同様にコンプライアンス上の問題が浮上すると思われる。

〔銀座で8億円を使った〕
弁護士の関根栄郷は、それまで種子田の委任を受けた弁護団が15人ほどいた中で、種子田の言動や暴力団との深い関係、付き合い方に嫌気して相次いで辞任していったのに唯一親密な関係を続けていた。関根も種子田と二人で銀座のクラブを飲み歩いていたが、時に債権者と鉢合わせをすると、関根と種子田が飛んできて、『できるだけ早めに返済します』と挨拶する場面があったという。債権者がクラブの社長たちから聞いた話では、銀座で一番金を落とす客は誰か? という話があり、種子田が突出してNO.1であり、多いときでは1ヶ月で8億円にもなったという。確かに種子田の銀座での使いっぷりは有名だったかもしれないが、好みの女性を口説くためだけに店に姿を見せていたそうで、決して褒められる飲み方ではなかったという。「息子(吉郎)も父親同様に行儀が良いとはいえない」とは息子を知る店長やマネジャー、多くのホステスたちの証言である。

だが、種子田が銀座で落とす多額の金の出所が、ゴルフ場の会員権の乱売で得た事実上の裏金であり、また息子(吉郎)が管理している複数の病院からの“上納金”でもあったと言われており、これはゴルフ場や病院にとっては明らかな背任行為で刑事事件である。

また平成22年12月9日の面談の際にも、債権者が年末までに具体的な返済計画の提出を求めたが、種子田は「年明けの1月にして下さい」と言って態度を明らかにしないまま帰って行ったが、それ以後は一切連絡が取れなくなり、種子田からの音信も途絶えてしまったという。(以下次号)

悪のレジェンド「種子田益夫」に新たな訴訟(5)

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〔医師の資格が無いのに息子(吉郎)が理事長に〕
しかし、債権者にとって最も許し難かったのは、「愛和グループ」の病院を事実上の担保にして債権者や債権者の知人から巨額の融資を受けながら、種子田が取った行動は、息子の吉郎を病院の理事長に据えたまま、種子田と病院の関係を本格的に疎遠にして、原告である債権者や債権者の多くの友人や知人から病院を守る態勢を構築したことだった。
種子田が融資を依頼した際に「病院を担保に供することはできる」と言明したことから、いざその実行を種子田に促すと、病院の公共性を盾に「担保提供はすぐには難しい」と言い出し、さらに時間が経過すると、「病院は自分のものではないので、これから働いて返します」と開き直った返答に終始していったのである。

だが、種子田がオーナーとして病院を支配し続けてきた事実は牛久愛和総合病院の初代院長だった故村山良介を始め、日本医師会の参与だった檜田仁、東邦大学医学部教授だった永田勝太郎などが種子田の依頼に基づいて病院の拡充や医師の派遣等で尽力した事実を「陳述書」にもまとめていることでも明かであるまた愛和総合病院が開設した当時、医師の資格が無ければ理事長には就けなかったにもかかわらず、何の資格もない吉郎(日本大学芸術学部卒)が愛和総合病院ほか傘下に収めた全国の病院でも理事長職に就いた背景には「地元茨城県出身で自民党の厚労族の重鎮たる丹羽雄哉衆院議員が種子田氏から数千万円の献金を受けて厚生省に強く働きかけた賜物だった、という指摘があった」(関係者)という。「種子田が病院のオーナーである事実は病院職員の隅々まで知れ渡っていた事実で、決して揺らぐことはない」(関係者)

「私が病院のオーナーであることに間違いはないので、いざとなったら病院を売ってでも必ず返します」と種子田は言い続けたが、卑劣にも掌を返すような豹変ぶりでその言葉を翻したことから返済は滞るばかりだった。(以下次号)

悪のレジェンド「種子田益夫」に新たな訴訟(4)

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〔領収書は偽名の「石原」で〕
ところが、債権者による種子田への可能な限りの協力がなされたにもかかわらず、債権者の周囲からは耳を疑うような話が数多く聞こえてきたという。関係者によると、
「債権者が種子田へ融資をした際、金利分を先取りしたのは額面12億円の時の1回だけで、その後は大半が月2%だったのに、種子田氏は周囲に『金利をいつもまとめて引かれて手取りが殆どない』と語ったそうだが、そもそも金利先取りの話は種子田氏が言ったことで、しかも一度だけだった。債権者から言ったことではなかった。そして金利先取りの話は、すべて種子田氏が返済を先送りするために頼んできたことだった」

また、融資が実行されてから3年4年という時間がたつ中で、返済が殆ど実行されなかったことに業を煮やした債権者が困惑しながら確認を求めたところ、種子田が「(平成10年の)年末までに最低20億円を返済する」と約束しながら、実際には1億円しか持参しないことがあった。債権者が多少は語気を荒げて「何だ、1億円ですか!?」と言った場面があったという。ところが、これについても、種子田は20億円の返済約束を隠して「1億円を持って行ったのに、『何だ、たった1億円か』と言われた」と周囲に愚痴をこぼしたという。
債権者にしてみれば、何年も返済を待たされ、ようやくうち20億円の支払を約束できたというところに、持参したのが1億円だったら、誰だって文句を言うのは当たり前のことである。

さらに領収書についても、債権者は種子田から「石原という名前でお願いします」という依頼があったため、全て「石原」名で領収書を発行していたというが、種子田は「返金しても受領書を出してくれない」などと、とんでもない話を周囲にしていたらしい。これでは、話を聞いた人たちが誤解をするに違いない。債権者の耳に入った話は以上のような次第だが、種子田が他にいくつも作り話をしていた。

ちなみに、長い間逃げ回っていた種子田が平成22年12月9日、ようやく債権者の前に姿を現した時に債権者が最初からのいきさつの全てを話し、「違っているところがあれば、些細なことでも全て言って下さい」と問い質した。すると、種子田は「社長のおっしゃる通りです。済みませんでした」と、ひたすら謝っていた。
しかし、そうした状況下でも種子田はその時「ところで社長、2500万円をお借りできませんか?」と真顔で尋ねたという。
「債権者もこれには本当に呆れ果てたが、種子田氏は債権者の知人にも声をかけ『手数料を払うから社長を説得して』と依頼していたという話が聞こえて来た時には、さすがに債権者も怒りを露わにしていた」(関係者)
種子田の約束や謝罪の言動がいかに言葉だけに過ぎないかがよく分かる。(以下次号)

悪のレジェンド「種子田益夫」に新たな訴訟(3)

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〔牛久愛和総合病院のオーナーは種子田益夫〕
種子田のまるで際限がないような金策に債権者は手を焼きつつも、遂には根負けして「自分の周辺関係者に相談するしかない」という考えを種子田に伝えたという。
すると、種子田は「融資を戴けるなら、どのような担保提供にも応じます」と言い、「愛和グループ」系列のゴルフ場(イタリア所在のゴルフ場も含まれていた)や病院を担保に供すると持ち掛けてきた。何人もの債権者の友人たちも種子田の話を聞いている。
その当時、種子田が経営するゴルフ場は宮崎、広島、兵庫などに複数か所あり、また病院も茨木県牛久市の「牛久愛和総合病院」を核に全国の病院を相次いで買収している最中にあったようで、それならば債権者は周辺関係者に相談できるかも知れないと思った。種子田が旺盛に病院を買収している事実、そして債権者から借り受けた資金を病院買収や設備の拡充に投下して入る事実を証言する者も種子田周辺や病院関係者など多数に及んでいる。

種子田による担保提供の話を踏まえ、債権者が知人に相談を持ち掛けると、何人かの関係者から「病院を担保に提供できるなら協力できるかも知れない」という返事があった。
債権者が種子田に「本当に病院を担保に出来るのか?」と念を押して尋ねた。すると種子田は即座に「大丈夫です。息子(吉郎)に理事長をさせていますが、実際の経営者は私なので、担保に入れることは全く問題ありません」と確約したのである。ちなみに、種子田は「灰皿からコップの一つまで全て自分のものだ」と豪語していた。

しかし、その後も日増しに種子田への融資額が増える中で、債権者が担保提供の話を具体的に進めようとしたところ、種子田が「私の病院は、東邦医大、東京女子医大、京都大学医学部の応援や支持を受けて成り立っており、その担保価値は牛久の愛和総合病院だけでも500億円以上は十分にあります。しかし、茨城県を始め厚生省や社会保険庁の監視下にあるため、今すぐには担保にすることはできませんので時間を下さい」と言を翻したのである。

また一方で、種子田は「病院は私、種子田益夫のものであり、私が自由にできるのです。借り入れの担保はゴルフ場会社やアイワコーポレーションにしますが、私が借入をすることは病院が借入をし、病院が保証するのと同じと思って下さい。必ず、借りた金は病院で返します」とか「私の息子も『病院は父から預かっているものなので、いつでもお返しします』と言っているので、大丈夫です」などと疑う余地もないような言動を繰り返したことから、結果として債権者が窓口となり、債権者の複数の知人を巻き込んだ格好で種子田への融資が継続されたという。

関係者によると、今回の訴訟で基本になっている債権額は、正にこうした状況下で発生したものであったという。種子田が「手形が回ってきて、これを処理しないと病院経営までおかしくなる」と言って債権者に過分の協力を頼み続けたひとつの証である。(以下次号)

悪のレジェンド「種子田益夫」に新たな訴訟(2)

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「あなたの信用で知人から借りて」
「種子田の人柄や考え方、過去の事業歴が一部でも分かっていれば、融資はもちろん付き合い方も変わっていた」と関係者が言うように、種子田の実態は、事業家としての顔などあくまで表面的なものに過ぎず、ゴルフ場の経営は赤字続きで火の車状態にあり、会員権は裏で5000人前後も募集と販売をしていたのが実情だった。しかし、種子田はその事実を世間には隠し、唯一利益が出始めていた病院経営をさらに拡大するために周辺から借り受けた資金を集中的に投下していたのである。

(写真は手形小切手の一部)

しかし、実際の種子田の日常は株式市場で仕手戦を仕掛ける相場師への資金融資でハイリスクハイリターンによる利益獲得を目指し、それを業とするほどにのめり込んでいたから、法的にも問題のある行動を繰り返していた。その一つの例が平成14年2月に東京地検特捜部が着手した、志村化工(現エス・サイエンス)の株価操縦事件だった。あるいはベンチャー企業の、株式市場での上場による資金調達に関わり、企業の決算対策で不良債権を引き受けて粉飾に加担するようなことも平気で引き受ける人物であることが次々に判明していったのだ。

種子田による債権者への猛烈なアプローチがさらに強まる中、種子田より依頼され12億円の融資を実行した直後からも連日のように債権者の会社に電話をかけてくるかと思えば、予約も無く唐突に訪ねてきて債権者に面会を求める様になった。そして、次から次へと「手形が回ってきた」と言う理由で金策を頼むようになった。

「債権者は、自身の性格や生き様から、一旦口に出して約束したことは必ずやるということを信条としてきたから、種子田氏の融資の要望にも可能な限り応じていた。
とはいえ種子田氏の金策の要求が五月雨式に繰り返され、正月の元日にも部下の大森という社員を債権者の自宅に使いに出すことさえあった。こうして、返済が一切ないところでエスカレートしていく種子田氏の要求に対して、さらなる融資に応じることが難しくなり、『これ以上の融資は無理だ』と伝えたことが何回もあったほどだ」

ところが、種子田はひるむことなく「社長の信用ならば可能だから、他から引っ張って欲しい」と言って、債権者の友人たち数人の名前を出して依頼することさえあったという。友人たちの名前をどこで調べたものか、債権者は呆れて、とんでもないことを言う人だと思いながらも、その度に種子田が土下座して、涙を流しながら「何とか助けて下さい。お願いします」と頭を床に押し付けながら繰り返し懇願したため、債権者も折れて協力する方法を考えざるを得なかったという。(以下次号)

悪のレジェンド「種子田益夫」に新たな訴訟(1)

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〔7億円何とかなりませんか〕
これから触れる内容は、何年もかけて数多くの関係者から聞き取りを続け、それらの情報を精査したものである。

種子田益夫。今でこそ一般にはその名が知られていないかも知れないが、昭和から平成の時代にかけて、武蔵野信用金庫、国民銀行、そして東京商銀信用組合などの金融機関から不正に融資を受けて、そのいずれでも特別背任等の容疑で逮捕起訴され有罪判決を受けた名うての事件師だ。国民銀行の事件では、演歌歌手の大御所、石川さゆりの“パトロン”としてマスコミでも取り上げられ一躍有名になったが、その種子田が今年の7月に貸金5億円の返還を求められる訴訟を東京地裁に起こされていたことが、このほど分かった。

訴訟を起こした債権者(原告)の関係者によると、「この5億円は貸金のほんの一部に過ぎず、種子田氏への最初の融資が発生した平成6年以降、貸金が返済されたのは2回程度、それも債権者に信用を植え付けることを目的としたもので、その後の融資では元金はおろか金利の支払もされずに累積していった結果として、債権の総額が平成15年5月15日の時点で368億円に達していた」と言うから、想像を絶するような金額である。それ故、関係者も「今年(令和元年)現在で債権総額の全額を請求することは可能だが、元金の一部のみを請求することにした」という。種子田を巡る事件もまた詐欺同然の手口が満ちている。

種子田益夫という人物の経歴を見ると、これまでに種子田が行ってきた事業は多種多様で、出身地の宮崎県では21歳の時に丸益商事を起こして金融業を始めたが、わずか2、3年で経営が破たん。その後、兵庫県や愛知県、岐阜県周辺で10数年を過ごした後に丸益産業を興して宮崎県に戻り養豚業を開始するが、これも3か月ほどで経営に失敗し丸益産業も手形不渡りを出し、会社としての機能が完全に失われた。その後、種子田は宮崎を離れたが、昭和50年頃に再び宮崎に戻り金融ブローカーやドライブインを経営するうちにキャバレーやサウナ、パチンコ店等を経営するようになった。しかし、2年後の昭和52年頃に地元の金融機関に貸しを作って、いつでも融資を引き出せることを目的に不良債権を肩代わりしたことが原因で丸益観光グループ各社は軒並み倒産した。ちなみに種子田はいつの頃からか山口組のフロント(企業舎弟)という裏の顔を持つようになり、地元の宮崎県出身の国会議員との関係を深めていた模様だ。
こうした経歴を見れば分かるように、種子田は事業意欲は旺盛でも経営手腕には大きな疑問があった。

(写真下:債務承認書)

 

訴訟を起こした前述債権者が種子田に初めて会ったのは平成6年頃のことで、種子田が負っていた債務の一部約1億5000万円の弁済のための資金を貸し付けたのが始まりだったという。当時、種子田は「愛和グループ」を率いて複数のゴルフ場ほか多種多様な事業経営を手掛ける“実業家”として振る舞っていたが、実際に利益を出している事業はほとんどなく、経営は事実上“火の車”状態だったことが後日判明した。債権者はそうした種子田の実像を知らないまま、紹介者から「月に1割以上の高利に苦しんでいる」という話を聞かされて協力することにしたという。

この債務約1億5000万円(月3%の金利)について種子田は約束の3か月という期限内に完済させたために債権者は信用した模様だ。

種子田の債権者への弁済をした翌日から、種子田による債権者への猛烈なアプローチが始まった。
「種子田から債権者の会社に電話がかかり、『ぜひ、お食事をご一緒したい』と、東京・赤坂の『口悦』という料亭に招かれた。債権者は別の債権者との調整をしたことに種子田が感謝して食事に招かれたと思い、誘いを受けたが、その夜は種子田氏から特段の話も無かったため、『すっかりご馳走になりました』と御礼を言って種子田氏と別れたそうだ。
ところが翌日から、種子田氏が連日電話を架けてきて、その度に『口悦』で食事を伴にすることが4日も続いた。そうなると、さすがに種子田氏には何か思惑があるのではないかと債権者は考えたが、種子田氏からは一向に具体的な話も無かったため債権者も敢えて聞かなかった」(関係者)

しかし、その翌日もまた種子田から電話が入り、債権者は「口悦」に出向いたが、連日の誘いを理由も無く受けるわけにはいかず、「何か私にお話したいことがあるのではないか?」と尋ねることになった。すると、種子田がようやく「7億円、何とかなりませんか?」と本音を切り出したのだ。
債権者が詳しい話を聞くと、種子田には別に強硬な債権者がいて、その調整で協力をお願いしたい、と胸の内を語った。そして「月に1割の金利は問題ないが、食事のたびに2000万円を持参するのが重荷だった。暴力団とは、これを機に縁を切りたい」とも言った。債権者が「これで全て解決できるか?」と尋ねると、種子田は「はい、これで解決します」と答えた。
種子田は、返済は10カ月後になるが、その間の金利はまとめて天引きして欲しいとも言った。また金利は月に5分と種子田は提案したが、それでは金利が高過ぎて返済に窮することを心配した債権者は考え、「もっと安くても良いので、月3分でも十分ですよ」と言うと、種子田は「では4分でお願いします」と言う。債権者が計算すると、貸付金の額面が12億円ならば、月4分の金利を差し引いても手取りで7億円余りが可能になったと種子田に言ったが、種子田は「これで是非お願いします」と頼んだ。

前出の関係者によると、債権者は種子田とのやり取りから「これですべてが解決するなら」と考えて種子田の要望を承諾したが、これが後から考えれば大きな間違いだった。先にも触れた通り、種子田は実業家を装っていただけだったからである。
種子田から食事に誘われた中で、種子田は「宮崎で車のミュージアムをやりたい」と言い出したが、種子田が10台以上の車を東京都内の環八通り沿いと愛知県一宮市のインターオートに預けていたことを債権者は承知していたので、この話だけは本当だろうと思った。その時、債権者が世界に5台しかない車を所有していることを知っていたようで、「(それらの車を)ミュージアムの目玉にしたい」という話を口にしたので、購入した当時の定価は3億5000万円(現在の価値は10億円以上)だったが、3億円で売ることにも同意したという(ただし、車の引渡しは債権債務の処理終了後とした)。しかし、その後の種子田の対応を考えると、こうした話を種子田が口にしたのも債権者への懐柔策の一環だったのではなかったか。(以下次号)

金の亡者 名家滅亡への道(1)

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日本有数の名家に驚愕の疑惑が浮上した。
東京は杉並区内の閑静な住宅街の、ひときわ大きな敷地にプール付き豪邸を構え、ベントレー、ベンツ、ポルシェほか高級外車を10台前後所有し、若い女を自由気儘に乗り替え、我が世の春を謳歌する自称“男の中の男 G社長”という人物が話題の主である。
東京渋谷にあるA学院大学出身のG社長がオーナーを務める会社は、文京区本郷に本社ビルを構えてビルメンテナンスや設備施工を業とし、グループ企業は20社を超える規模で、総資産は個人と法人併せて数千億円といわれている。
しかし、この男の錬金術が正常とは決して言えないのである。
金にものを言わせ下請けを泣かし、社員へは雀の涙ほどの給料で労働を強いる正にブラック企業で、自分だけ良ければ主義の典型的な人物なのである。
個人的に女を口説くのに必要だとしてブランド物や宝石、貴金属などを100万円単位で買うための裏金作りに余念がないというのだ。裏金は関連会社や自分の配下の会社を利用し上納させているという。
G社長の実兄は東大卒のエリートで、3大メガバンクのひとつである某銀行のトップを経て、現在は誰でも知るホテルチェーン企業の代表取締役に納まっており、日本経済界のドンと言っても過言ではない人物という。真面目で慎重派であるためか悪い噂はないが、しかしG社長は実兄と違って錬金術にばかり精を出し、しかもその方法が誠にえげつない。
「会社の年商が800億円規模で、G社長の個人年収は2億円とも3億円とも言われるが、経営陣の役員の年収は1000万円台に過ぎない。大企業の役員で1億円超の年収がザラということで話題になるような時代に、G社長の会社は個人商店そのもの」(関係者)
一般庶民からすると、そこまでの資産家に裏金など必要ないと思われるかもしれないが、そこは守銭奴の守銭奴たる所以であり、出すのは舌でも惜しみ、例え一円玉でも貪る一種の金銭中毒者と言えよう。
地位も名誉も財産も全てを持ち合わせているG社長であるが、残念なことに度胸が極端に欠如しているらしい。G社長は抜群な経済力を武器に企業買収や不動産買収を手掛けている中で、荒稼ぎを目論む代償として反社会的勢力との衝突も避けられない。
この状況に陥ると、G社長はビビリまくり、何と仲介者を入れて問題解決を図り、自分はすっかり影に隠れてしまうのだという。
コーポレートガバナンスやコンプライアンスが叫ばれて久しいが、反社会的勢力の人間と写真を撮っただけでも大問題なのに金のつながりまでできたことが発覚すれば、即座に暴力団排除条例の対象となり、社会から抹殺されるリスクは極めて高い。
しかし、それでも今だに金融機関から取引停止になっていない理由が有るとしたら、それはG社長が実兄の庇護の元にあるからという可能性を否めないのである。
仮に実兄に対する数々の忖度が働き、弟が守られているとすれば、名家といわれるG家全体への悪影響も免れまい。
今回は本誌が得ている情報を基に一部を記事にしたが、G社長が蔓延る限り悪徳財閥の謗りは免れなくなるに違いないから、今後も継続して真相を究明する。(以下次号)

貸金返還請求訴訟証拠書類を再検証する(2)

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(1)確認書
平成11年9月30日付で、A氏がエフアール宛に出した「確認書」は、鈴木が融資を受けるためにA氏に振り出した手形(13枚)を、同社の監査の都合上、どうしても一旦お預かりしたいという鈴木の依頼に応え、A氏の温情で手形の原本と共に渡したものだった。もちろん、それまでに貸付金の返済は一切ない。
ところが、鈴木はこの「確認書」を悪用して、「A氏に対する債務は完済された」
という主張を法廷の場に持ち込み、さらに「債務者はエフアールで、被告は関知しない」とまで主張した。しかし、当時のエフアールは、経営が危機的状況にあり、手形を持ち出した経緯から見ても、鈴木個人の責任ははるかに大きかった。A氏が金員を貸したのは鈴木個人であって、会社であれば天野が対応しなければならなかったが、当時A氏は天野とは電話で話したことも無く、面識すらなかった。
なお、鈴木はA氏の手元にある多くの「借用書」や「預かり書」等の書類(全て原本)を「回収漏れ」と言ったが、鈴木を知る誰もが「鈴木は相手方には出来るだけ書類を渡さずに口約束だけをして、仮に書類を出すことがあった時には、100%回収することに執着する男で、回収漏れなど絶対にあり得ない」と言う。
平成11年7月30日に西がA氏に納めた利益の分配金15億円について、鈴木はA氏に対する債務の返済金であると言って、「確認書」との整合性を取るために支払日を無理やり9月30日と主張した。しかし、西が15億円をA氏の会社に持参したとき、A氏は「合意書」に基づいて、自分の取り分を5億円とし、残る10億円は西と鈴木のA氏に対する債務の返済金の一部に充てるという手続きをした。また、A氏は心遣いで「鈴木さんと分けなさい」と言って西に1億円を渡した。その翌日、A氏の会社に西と鈴木が訪れた際、15億円の処理と1億円を西に渡した件を鈴木に確認すると、鈴木は「有難うございました」とA氏に礼を述べた。15億円が鈴木の言うように返済金であるとしたら、そのうちから西と鈴木にそれぞれ5000万円を渡すようなことは無かったはずだ。
(2)借用書(15億円と10億円)
平成14年6月27日、A氏が鈴木に対する貸付金の整理をするために鈴木を会社に呼び確認を進めた際、鈴木が「A氏社長への返済で西に10億円を渡した」と主張した。驚いたA氏が同席していた西に確かめたところ、西が授受を渋々認めたために、鈴木への債権25億円から10億円を差し引いて15億円とし、西も10億円の借用書を書いた。A氏は鈴木に対し「私に対する返済金であれば、なぜ直接来て話をしなったのか。もしそれができないときでも、なぜ『西に社長への返済金の一部として渡した』ということを、最低電話ででも何故言わなかったのか」と言うと、鈴木は「済みませんでした」と言って謝罪し俯いた。ところが、西が鈴木から受け取った10億円はA氏への返済金などではなく、「合意書」の破棄を西に執拗に迫り、その結果、複数回にわたって西と鈴木の間で報酬名目の金銭の授受が発生したものであった。平成18年10月16日の三者協議の折に、西が鈴木に「これくらいは認めろ」と言うと、鈴木も渋々認めた。
鈴木はその後、法廷に提出した証拠資料(「乙59号証」)の中で、「6月27日に、原告(A氏)との間で債務合計金25億円とする準消費貸借契約の合意をしたことがあるか」という被告側弁護士の質問に「全くない」と言い、続けて「西に対して『原告に支払うべき25億円のうち10億円は西に預けている旨を述べたことはあるか」という質問にも「ない」と言って、A氏からの借入金を25億円に減額する旨の協議など6月27日には無く、A氏への返済金10億円を西に渡したことさえも否定した。当日の二人の借用書には確定日付がある。
しかし、これまで触れている通り、A氏が「今後は株で大きく利益が出るから、鈴木への貸付金40億円以上(約束の遅延損害金30%では60億円以上)を25億円にして欲しい」という西の依頼を了承して6月27日の面談協議になった経緯があり、その場で鈴木が「西に10億円を渡した」という発言がなければ、さらに減額した15億円の借用書を作成することなどなかったし、西もまた10億円の借用書を作成してA氏に渡すことなどなかった。
(3)和解書
平成18年10月16日に作成された「和解書」について、鈴木は「西が香港で殺されかけたという事件の容疑者にされる、という不安と恐怖感、そして側近の紀井に裏切られたという衝撃から、書面に署名指印してしまった」と主張して、「公序良俗違反」「強迫」「心裡留保」という根拠を並べ立てた。あたかもA氏と西に脅かされたからということを強調した。さらに、A氏の会社はビルの8階にあるが、そのフロアーに上がるエレベーターを止められ、監禁状態に置かれたとか、A氏と反社会的勢力の大物とのツーショットも見せられた、と言い、脅迫を受けたかのごとき主張をした。しかし、当日の面談は録取されており、A氏や西が鈴木を脅かした事実など無いことは明白で、紀井が鈴木の指示で取得株式を売り抜け、巨額の利益金を確保している事実を突きつけられたため、弁明が通らないと覚悟して、それでも隠匿資金の流出を最小限に食い止めるために、さっさと「和解書」に署名、指印したことが推察される。なお、鈴木は「合意書」も「和解書」も2度3度と注意深く読んでおり、「文言に不備があれば修正する」というA氏の言葉にも応じて署名、指印したのである。ちなみに、裁判に提出された音源は最後の部分が切れているという不手際があったが、西が別途に録取したものには録音されていた。
「和解書」作成後、鈴木は頻繁にA氏に電話を入れ、「和解書」を追認する言動を繰り返した。さらに、同年10月23日にはA氏の会社を訪れ、「和解書」に記した50億円の支払方法等について、より具体的な内容に触れた。(当日の録音記録もある)
前記電話でのA氏との会話の中で、鈴木が「西が株を買い支えするために蒙った損害は70億円と言っているが、正確な数字を知りたい」と尋ね、2~3日後にA氏が58億円数千万円と伝えると、鈴木は「その損失額は利益から差し引いて3等分するべきですね」と言った。この発言は、まさに「合意書」に基づく株取引が実行された事実を鈴木自身が認めたものだった。
三者協議の場で、紀井が株取引の実態を証言した事実を巡って、鈴木が西義輝に対して「じゃあもう命落とせば良いじゃないか今。そんだけの腹あるのかお前」(録音記録より)という発言をしたが、「強迫された」と言っている人間が、強迫しているという人間に吐く言葉ではない。(以下次号)

貸金返還請求訴訟証拠書類を再検証する(1)

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〔多くの証拠物が語る鈴木の悪事〕
先に「海外の隠匿資金1000億円超の全容解明へ」の記事で、A氏が裁判所に提出した証拠(未提出分を含む15点)を掲載したが、読者より「もう少し詳しい説明が欲しい」という問い合わせがあった。そこで、改めて主要な証拠一点一点について、それが作成されたときの経緯や背景事情を具体的に取り上げる。
(1)合意書
平成11年7月8日にA氏、西、鈴木の三者が「合意書」を交わした。同年の5月末に西が宝林(現サハダイヤモンド)の株式800万株を買収し、鈴木と西は同株をきっかけにして大掛かりな仕手戦を仕掛けようとするが、株価を安定的に高値維持させる資金が覚束ず、宝林株800万株の資金3億円を出してくれたA氏に相談を持ちかけたのが7月8日だった。
それまでA氏や西と会った際の鈴木は、どちらかと言えば寡黙で、常に西を立てる対応が多かったが、その日は別人のように饒舌で、A氏を説得し続けた。「これまでに20~30億円という授業料を払ってきたので、(利益を出す)絶対の自信があります」と力説し、株取引は宝林株で終わらず、いくつもの銘柄を仕掛けていくので安定的に資金が必要であり、それを社長にお願いしたい」と懇願した。さらに鈴木が、A氏に負っていた多額の債務を返済するためにも、この株取引を成功させたいと力説したことからA氏は応じた。
ところが、鈴木は貸金返還請求訴訟の法廷で「A氏から資金提供を受けるために必要だという西に協力して、書面に署名したに過ぎず、それを実行するという認識はなかった。事実、その後、社長とは株の話は一切していない」と主張した。
西がA氏から宝林株800万株の取得資金3億円を借り受け、その直後からの株取引で株価を高値誘導するための買い支え資金もA氏から支援を受け、実際に鈴木の指示する銘柄の株価を高値誘導し、そのタイミングで鈴木の側近であった紀井義弘が売り抜けた事実は、紀井の証言からも揺るがない。
西が鈴木に言われるままにA氏に株取引の情報を入れず、またA氏と鈴木の関係を故意に希薄にするような対応をしたために、A氏は蚊帳の外のような状況に置かれたが、そのことで『合意書』に基づいた株取引は無かったという鈴木の主張は正当化などできるはずは無かった。何より、西が志村化工の相場操縦容疑で東京地検に逮捕された際、鈴木の側近であった武内一美も逮捕され、鈴木の関係先が家宅捜索されていた。取り調べで、検事が執拗に鈴木の関与を追及しても、西が頑なに否認し続けたからこそ、鈴木は首の皮一枚で助かったようなものだった。
また、宝林株の売却利益について、鈴木自身が「JAS(宝林)の件では、双方(社長と西)に資金を渡しているはずです」と、「合意書」の効力(実績)を認めている。すでに触れたように、西は宝林株取引の利益分配で30億円を受け取った事実を明らかにしたが、鈴木はいつ、いくらをA氏に渡したというのか?
(2)念書
平成9年9月初旬から同10年5月にかけて、鈴木が資金繰りのためにA氏から借り受けた金員は約28億円に上った。その内訳はエフアールの手形13枚で総額約17億円、借用書で3億8000万円だったが、その他にいくつもの物品を持ち込んでA氏に言い値で買ってもらった中にピンクダイヤモンド(1億3000万円相当)とボナールの絵画(1億7000万円相当)があった。鈴木は後日、ピンクダイヤモンドと絵画、さらにはA氏が保有していた高級腕時計を「売らせてほしい」と言って持ち出したにもかかわらず、売却代金も払わず現品も返却しなかった。それらの売却代金約7億4000万円も、準消費貸借として鈴木の債務となった。
証拠である念書は平成10年5月28日、鈴木がA氏の会社を訪ねた際に持参してきたもので、エフアールの常務取締役、天野裕の署名、押印もあって、A氏はピンクダイヤモンドを鈴木に預け、念書を受け取った。
ところが、その3日後の5月31日、鈴木は親和銀行を巡る不正融資事件で警視庁に逮捕された。A氏はその情報を入手していて、5月28日に鈴木に伝えたほどだが、それでも鈴木の依頼に応えてピンクダイヤモンドを預けたのはA氏の温情だった。しかし、鈴木はA氏の温情を悪用した。
A氏に買ってもらったはずの絵画は、すでに他の債権者に担保として預けられており、また高級時計は知人に持ち込んでバセロン3セットで6億円を借入した事実が確認されている。
また、鈴木は、平成9年10月15日付の3億円の融資で作成した借用書をもって「A氏より買ったもので、それが3億円の借用書」と主張した。ピンクダイヤモンドをA氏から預かる7カ月も前のことである。まったく支離滅裂な主張でしかなかった。(以下次号)

鈴木義彦からの2通の手紙(2)

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〔私一人で立案し稼いだ金〕
「私はこの3年間で西と会ったのは、(略)2回きりです。TELも1回、それきりです」
「特に今回、私を陥れるため作り上げた香港での殺人未遂事件は、考えれば考えるほど、頭にきて眠れません。到底許せることではありません。第三者を入れ、ウソだった、作り話だったと判明させなければ、納得がいきません」
「(紀井は)話し合い当日に全ての仕事をほっぽり出して逃亡していますが、私の被害が多方面で非常に大きいということ。また、やり方が非常に卑劣だということ。また、紀井は、国内外の関係者数名に、私が殺人を犯すような人なので、私の所を辞めたと言っています。(略)このような話をされては、私の国内外における仕事の被害も甚大です。許せません。(略)3人が共謀して、私を陥れようとしたのか、疑念を抱いてしまいます」
鈴木は紀井に約束した報酬の1/100も払っていないのに、よく言えると思うほど身勝手な事情を書き連ねている。
「今回の件も話がほとんど漏れており、どちらにしても、西と紀井がいる限り、秘密保持は出来ません。何とか紀井本人を捕まえて、第三者を入れ、キッチリ紀井から本当の事情を全て聞きたいということ」
そして、「合意書」の件になると、
「よく振り返って考えると、何の株を買うとか、どのくらいの数量を買うか等、株に関することで、3者で話し合いをしたことが一度も無いということ。(西と2人でも一度も無い)また、私一人で立案し稼いだ資金を、国内外の移動という、現在もっとも難しいことで、なぜ、一人だけでやらなければいけないのかということ」
「合意書」を交わして、A氏に株価の買い支え資金を出させておきながら、一方でA氏を蚊帳の外のような状態に置いて、情報の遮断を策したのはほかならぬ鈴木自身だった。
「私一人で立案して稼いだ資金」とは、よく言えたもので、宝林株800万株の取得は西の交渉によるもので、その後の取得した宝林株を高値で売り抜けるための買い支え資金はA氏が出した。もし鈴木が立案したと言うのであれば、それは、利益を密かに海外に流出させ、タックスヘイブンのプライベートバンクに隠匿することだったのではないのか。
しかし、鈴木は、こうした独りよがりの理屈を根拠に「私がした約束は、西の脅しと騙し、紀井の裏切りにより、正常な判断を奪われてしたもので、私を拘束するようなものでは有り得ない」と主張することに尽きた。そして、今後の対応を、「私のことをよく理解してくれている青田氏と、弁護士の平林先生に、国内における全ての問題の代理人として全面委任することにしました」と言って、鈴木自身は身を隠す。
「今後、全てが解決するまで、私がこの件で直接話をすることはありませんし、金を払うこともありません」
鈴木が狡猾と思われるのは、A氏だけは自分のことを理解している、とA氏に思わせるような流れを作っていることではないか。それを窺わせているのが、末尾の件である。
「私は、海外での資金作りに最大限、全力投球するつもりです。また、現状それしか出来ません。(海外口座を作ることは検討しておいて下さい)
何とか私のこの真意をよく理解して戴き、世の中の道理に適う形、納得いかない点の解決に協力してもらい、和解金、支払い方法等の再考をお願いします」

A氏は、鈴木の手紙を読み、「この問題は当事者同士で話し合いをしなければ解決しない(代理人や弁護士が同席するのは構わない)」という趣旨の手紙を平林弁護士経由で鈴木に送った。
しかし、鈴木は頑なに代理人を立てることに固執し、自身は姿を現そうとしない。これも鈴木の常套手段に違いない。なお、A氏は鈴木が代理人を何人立てるにしても、鈴木本人が同席しなければ本当のところが分からないから、必ず同席するということを条件にした。

〔不可解な鈴木の手紙〕
2通目の手紙でも鈴木のA氏に対する態度は変わらないように見えた。
「根本的に私は、今回の件は以前に社長に言いましたが、合意書とか、和解書とか、そんなものは関係ないのです。社長には過去たいへんお世話になり、人物的にも魅力を感じ、男としても一目も二目も置いていました。私にはそう思える人物が過去ほとんどいませんでした。それと100歩譲って西がJASのきっかけを作ったということです。JASの件では、双方に資金を渡しているはずです。西が一人だったら、何と言おうが、何をしようがびた一文渡しません。社長が居るからやろうという気持ちを維持しているだけです」

そして、相変わらず紀井を悪者にして、
「話し合いの後、西が紀井に話し、紀井が私の関係者にTELをして、香港の件を含め、今回の件の話をしたことです。海外の資金は自分のものであって、自分のものではありません。関係者には事情を説明して、各方面対応してもらうしかないのです。当然、関係者は、このような件を一人で対応させるようなことはさせません」
と言って「平林先生の力と青田氏がフォローしてくれなければ、完全な形で資金(現金)を受け渡すことは難しいのです。また、私が逃げ隠れするとか、裁判をするとか、話を壊すつもりならば代理人等立てません」と、代理人を立てることの正当性を強調した。だが、鈴木は実際には何年間も逃げ隠れしていた。

もし、鈴木がこの二通の文面にあるように、A氏に対しては「和解書」の履行に努力するという意思があったならば、代理人となった青田、平林の両人は、本当に交渉する現場を作ったに違いない。しかし実際には逆だった。(以下次号)

鈴木義彦からの2通の手紙(1)

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〔和解書を留保撤回〕
今回は鈴木義彦がA氏に送った2通の手紙を取り上げる。この手紙は、平成18年11月下旬から同12月初旬にかけて郵送されたが、その直前の10月16日にA氏と西、鈴木が「合意書」の存在と共に有効性の認否をめぐって協議を重ねた結果、鈴木義彦がA氏と西義輝にそれぞれ25億円を支払うことを約した「和解書」が交わされたという場面があった。
協議は数時間を経たなかで、鈴木は「合意書」に基づいた株取引を頑なに否定して、当初は宝林株の取得資金3億円をA氏が出したことさえも否定していたが、鈴木の指示で株の売り抜けを全て任されていた紀井が、西の聞き取りに応じて株の売り抜けの現場や利益の総額を始め、鈴木が利益の大半を海外に流出させてきた実態等の真相を語っていた事実が明らかになったことで、鈴木は遂に折れる形となり、冒頭に挙げた金額を支払う約束をA氏と西にしたことから、西が予め用意した「和解書」にA氏と西、鈴木がそれぞれ署名、指印した。
「和解書」には書かれなかったが、鈴木は、A氏にはさらに2年以内に20億円を支払うと約束して協議は終了した。
鈴木がA氏に送った手紙は、この支払約束を留保撤回し、代理人を新たに立てるから、その者たちと交渉して欲しいという内容だった。

「先日帰国しましたが、本日再度、出国せざるを得ません。当分の間、帰れません。理由は、国内で問題が発生しました(詳細は、青田氏から聞いて下さい)。帰国前から、青田氏から多少の情報は得ていたのですが、国内から海外へ切り口を付けようと本気のようです。誰がやったかは確認できませんが、私は西しかいないと思っています。(略)こんなことで本当に今回の件がキッチリ話がつき終わるのでしょうか?」
「紀井もあの日以来逃亡し、私一人では仕様もありません。(略)私は、社長が西、紀井と共謀しているとは思っていませんので、(略)是非、協力、再考して下さい」
鈴木は、利益の隠匿が国税当局にバレて、問題が生じた。その原因を作ったのは西しかいないと決め付けたうえで、先ずは「和解書」の履行に疑問を投げた。そして、三者協議について、
「紀井の卑劣な裏切りに動揺し、3年間に及ぶ西の全てがウソの作り話を、ハッキリさせず、西の罠にはまり、安易に和解してしまったこと、金額についても、現在自分が、全資産を処分して出来うるギリギリの数字を言ってしまったこと(現在の状況では非常に難しい)、また、紀井が言っている数字は、表面上の数字であり、損、経費、裏側の事情が全く分かっていません」としつつ「私しか本当の利益の数字は分かっていません」と断じる。鈴木が三者協議の場で認めたのは、わずかに「合意書」に基づいた株取引は宝林株のみであったが、この冒頭の流れを見ると、鈴木が株取引で上げた利益を不正に海外に流出させていたこと、紀井が証言した利益総額約470億円は事実であること(ただしそれは、鈴木に言わせれば粗利益で、純利益ではない)を認めたうえの話になっている。(以下次号)

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